「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(1)

今回の藤田展のコンセプト

今回の展覧会(2018年7月31日~10月8日、都美術館)は、東京都美術館・朝日新聞・NHKの三者が主催であったためか、『朝日新聞』での広報が熱かった。NHKの特別番組(「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~」2018年9月8日(土) 17:10 ~ 18:00 総合テレビ)は、見損なってしまったが、主催者としての、都美術館の公式サイトによると、「藤田の画業の全貌を解き明かす大回顧展」と題して、つぎのように記している。

「明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)。2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催します。本展覧会は、「風景画」「肖像画」「裸婦」「宗教画」などのテーマを設けて、最新の研究成果も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。」

http://foujita2018.jp/highlight.html

一方、私が読んだ、朝日の記事は五つほどで、①「動から静へ 重なる人生の軌跡」(夕刊7月14日)、②「激動の生 絵筆と歩む」(伊藤綾記者 8月16日)③「藤田嗣治 魂の跡形をたどる」(大西若人編集委員 8月21日)④「溢れる自信 どこから<自画像>」(8月28日夕刊)、⑤多文化な人生と絵画世界」(記念号外、大西若人編集委員)で、⑤は、展覧会場に置かれていた全紙別刷り特集の裏表であった。どれも、「見出し」に見るように、代表作を通じて、藤田の全貌が捉えられる画期的な展覧会であることが語られている。三者の紹介の論調は、チラシにもあった、藤田のエッセイ集の中の言葉「私は世界に日本人としていきたいと願う」(『随筆集地を泳ぐ』1942年)に集約されるのだろう。

参照> 過去の当ブログ記事
今回もカタログは買っていないので、これまで当ブログに書いてきた何回かの関連記事に示した情報と合わせてのレポートに過ぎない。その主なものは以下の通りである。

・上野の森美術館「没後40年 レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08 /12/ 13

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

・ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について~

「嗣治から来た手紙~画家は、なぜ戦争を描いたのか」(2月11日、テレビ朝日、10時30分~11時25分)を見て(14/2/18)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

・ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

(15/11/01

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/11/14-962c.html

今回の藤田展での「戦争画」の位置

 会場での展示は、次の八つの時代に分かれていた。主催者側の意図とは異なるのだが、私が関心を持ったのは、むしろ、初期の「Ⅰ原風景―家族と風景」「Ⅱはじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで」と「Ⅳ‐2<歴史>に直面する―作戦記録画」の時代であった。

Ⅰ原風景―家族と風景

Ⅱ はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで

Ⅲ 1920 年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿

Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代

Ⅴ 1930 年代・旅する画家―北米・中南米・アジア

Ⅵ-1 「歴史」に直面する―二度の「大戦」との遭遇

Ⅵ-2 「歴史」に直面する―作戦記録画へ

Ⅶ 戦後の20 年―東京・ニューヨーク・パリ
Ⅷ カトリックへの道行き

[Ⅰ]には、藤田(1886-1968)が、渡仏前に朝鮮総督府医院長だった軍医の父親を訪ねたときの作品「朝鮮風景」(1913年)があった。[Ⅱ]には、パリの“何気ない”と思わせる街角の風景を描いた作品に、私は惹かれた。「雪のパリの街並み」(1917年)「ドランブル街の中庭、雪の印象」(1918年)「パリ風景」(1918年)などである。1929年一度帰国するが、一年で戻り、1933年の帰国以降、日本での製作が始まるが、私が、もっとも着目したのは[Ⅵ-2]の時代であった。藤田の「作戦記録画」(以下「戦争画」と記す)は、東京国立近代美術館にアメリカから返還(1970年無期限貸与)された中の14点から2点だけが、今回は展示されている。


「雪のパリの街並み」(1917)

「パリ風景」(1918)、真ん中あたりの歩道を登って行く小さな人影、手前の手押し車を押す老女が坂を下ってくる姿がとてもわびしい。その後の藤田の華やかな技法の転換を見るなかで、こうした初期の作品には虚飾がないように思えた

「アッツ島玉砕」(1943年)と「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)の大作である。この部屋の解説には、西洋美術史上の戦争をテーマにした絵画の研究に励んだとして「戦争を見ずとも、これまでの経験と古今東西の戦争図像の参照によって空前絶後の人体の肉弾戦を中心とした茶褐色の<玉砕画>への陶酔を深めていきました」とあった。藤田の戦争画については、これまでも何度か触れているが、今回の、の展覧会の「年表」には、これらの戦争画を制作した時代がどのように記されているかが、私の眼目でもあった。「年譜」は、[Ⅲ]と[Ⅳ]の間の通路に展示されていた。ちょうど10年前に上野の森美術館での「没後40年」の展覧会のときのような、年表の「空白」はなく、全時代にわたって記されていた。簡単なものだが、太平洋戦争前後から拾ってみよう。

1940年5月23日 パリを発ち、5月26日マルセイユより伏見丸乗船、7月7日に神戸着。丸刈りとなる。9月~10月 ノモンハン取材。

1941年10月~12月 仏領インドシナへ帝国芸術院と国際文化振興会の文化使節として渡り、途上真珠湾攻撃を知り、12月18日帰国。

1942年12 第1回大東亜戦争美術展覧会「十二月八日の真珠湾」出品

1943年1月「シンガポール最後の日」などにより朝日賞受賞、9月 国民総力戦美術展「アッツ島玉砕」出品。

1944年9月 神奈川県、藤野に疎開
1945年4月 陸軍美術展「サイパン島同胞臣節を全うす」出品、4月15日麹町の自宅焼出、12月戦争画説明などのため、GHQの嘱託となる。

1946年4 日本美術会による戦争責任問題起こる。 GHQ収集の戦争画は、一時東京都美術館に保管、1951年にアメリカへ送付。

1947年2月 GHQ作成の戦争犯罪人名簿に藤田の名前はなく、戦犯の疑いが晴れる。

1949年3月10 離日、アメリカへ。

1950年2月 フランス入国。

若干補えば、1938年10月、海軍省嘱託として、藤島武二、石井白亭、中村研一らあわせて6人が上海、九江を経て漢口攻略戦に派遣される。39年4月、陸軍美術協会に藤島らと参加直後、突然の渡仏、その意味が問われながら、一年足らずで、ヨーロッパの戦局が急を告げる中、帰国の途に就く。41年7月帝国芸術院会員となり、同月第2回聖戦美術展に出品したのが「哈爾哈(はるは)河畔之戦闘」(1941年)だが、もう一枚のノモンハン日本軍敗退の残酷図を描いた作品の存在を語る証言もある。42年4月陸軍省からシンガポールへ、5月海軍省から東南アジア各地へ、7月満州国へと派遣される。1943年12月の第2回大東亜戦争美術展覧会には、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」が出品されている。

なお、会場の2点の「戦争記録図」のキャプションにおいては、「アッツ島玉砕」については「軍からの委嘱ではなく自らの意思で写真と想像に基いて制作したのち、陸軍に献納し、[陸軍作戦記録図]となった」と記され、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」には、1945年3月に疎開先の藤野で制作、ユージンスミスの「ライフ」の写真を連想させるものであり、藤田も軍を通じてアメリカ側の報道に接していた可能性がある旨、記されていた。これらの解説の意味するところが、明確ではないのだが、前者は、軍からの命令や強制がなかったことを強調し、また両者とも、過去の写真や当時の国民には知り得なかった、新しいアメリカのカメラマン、ユージン・スミス(1918~1978)の作品を参考にしていて、自らの発想だけによるもので無いことを説いているのだろうか。

<参照> 東京国立近代美術館所蔵戦争画一覧

①南昌飛行場の焼打 1938-39
②武漢進撃 1938-40

③哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
④十二月八日の真珠湾 1942
⑤シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
⑥アッツ島玉砕 1943
⑦血戦ガダルカナル 1944
⑨神兵の救出到る 1944
⑩ブキテマの夜戦 1944
⑪大柿部隊の奮戦 1944
⑫○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943
⑬薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
⑭サイパン島同胞臣節を全うす 1945

 

初出:「内野光子のブログ」2018.09.16より許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0698:180917〕