「経済政策」を「常識」で判断してよいのか?
早房長治氏の<消費税増税は本当に参院選の争点なのか-「増税なしの財政再建はありえぬ」は常識>と<「経済成長と財政再建の両立」は検討に値する>を読んで驚いた。
氏によれば<各種の世論調査を見れば分かるように、「消費税増税なしの財政再建はありえない」ことはむしろ国民の方が理解している>のだそうだ。
しかし、消費税増税を「常識である」とする人々が、『経済学』を踏まえてそう判断しているのかどうか、そして、いまの(教科書的)『経済学』があてになるかどうか、私には疑問だ。
『増税すれば財政再建できる』というのが経済学の『常識』なのかはともかくとして、現実の経済が経済学者の『常識』に沿って動かないことは、この間の経済情勢が証明しているのではないか(注1)?
さて、早房氏は<増税なしに福祉制度の維持、財政再建とも不可能なことを考えると、>[消費税増税に反対する]<3党の姿勢は無責任>ともいう。
しかし増税をするにしても、「消費税」増税は本来「選択肢」の一つに過ぎないはずだし、時期は何時にすべきか、まず増税を先行するのが妥当かどうか、といった議論も多いはずだ。それを「無責任」と切って捨てる言説はいささか「党派的」ではないか。
そもそも先の衆院選では「次の選挙まで消費税は上げない」ことを公約としながら、1年もたたないうちに「10%への増税に言及」する菅直人氏のほうが、よほど「無責任」ではないか?今の菅直人が正しいなら、衆院選挙の時の菅直人はなんだったのか?1年弱の政権運営で民主党の「マニフェスト」が無理だったことがわかったのか?またこれだけの「政策大転換」がいつ党内で議論されたのか?疑問は尽きない。
さらに「たたき台」の税率を自民党案と同率にしているのは、「争点封じ」ではないか?選挙に臨んでは、独自に税率を算出するのが、責任ある政党のとるべき道ではないか?
有権者にとっては、政策を選択できてこそ選挙の意味がある。
しかし民主、自民、公明が消費税増税で一致しているのに、<各党の主張の差を際立たせることは[原文のまま]重点を置いているように見える>報道に、氏は不満のようだ。「税」に関しては『大政翼賛会』的状況が、そんなに望ましいのだろうか。
演説場所で変わる、菅首相の「低所得層への負担軽減」案
さらに菅首相からは『××万以下の所得の家計には戻し税』などという「方法もある」という『解説』がつく。
この菅首相の発言は概して不評のようだが、早房氏は<テレビ各局の中には・・・「首相は国民の反発に困惑して、低所得層への負担軽減をいい出した」と報道している局も多く、あきれる。あまりにも無責任である>と首相を『擁護』する。しかし、演説場所によって『××万以下』の額が200万から400万に変わったりすると、有権者はどう聞けばよいのか。「首相の言葉がそんなに軽くてよいものか」と思わざるをえない。ここでも無責任なのは、菅首相のほうだ。
菅首相がどの程度の『軽減』を想定しているかは、もちろん「不明」だが、もし首相の想定額が「聴衆が期待するに足る」ような額であれば、どうして消費税増税で「財政再建」ができるのか?
けっきょく菅首相は、税制に対する「思想」を持たぬまま、「消費税増税が国民の常識となっている」という状況判断に基づいて、「消費税増税」を打ち出したのではないか、とも思われてくる。
そもそも消費税を10%にすれば、財政再建ができるのか?(内閣府の試算は15%であるという。)井堀利宏氏によれば、消費税で財政収支を均衡させるには最低25%~30%程度の税率が必要である。
http://www.nira.or.jp/pdf/taidan49.pdf
しかも消費税を増税すれば、当然消費が縮小し、日本の経済規模(GDP)は相当に縮小する。したがって現在の収支の不足を埋める分の増税をしても、それだけでは財政は均衡しない。そこでさらに消費税増税をすると、これは更に・・・、ということになる。
だから「消費税を10%――それとも30%にするのだろうか?――にして、400万?までの家計には戻し税をやって、さらに法人税減税をやって、それで福祉制度を維持し、財政再建する」などというのは、まったく『うそっぱち』だ。
たしかに財政の現状に「サステナビリティ」がないのは間違いないだろう。しかしこのことは、消費税増税によって「財政・日本経済の破綻」が回避されることをなんら意味してはいない。
菅首相の「増税論」は「誠実さ」を欠いている
私には、菅首相の消費税の取り上げ方は、あまりにも「テクニカル」に見える。
ギリシャ――日本とはまったく異なる経済・財政状況の国――の危機をネタに危機感を煽る。
自らの判断根拠を示すことなく、自民党提案の税率に乗っかる。
小野善康氏(大阪大教授)の『増税と成長の両立』をパクッて、氏の提案と別の文脈で使う。
(小野氏の提案は、『増税分をただちに雇用拡大に支出する』というものであり、『増税分はその分支出増となる』のである。しかし菅政権の案では増税分は、財政収支の改善あるいは既存の社会保障の維持のために「使われる」ものである―実際にはこれらに回るかさえも、はなはだ疑問だが―。だから小野氏の理論で、菅首相の『増税と成長の両立』を裏付けることはできない。)
こうした手法による「増税論」は―『納税者』からみれば―「誠実さ」を欠いている。「有権者」が民主党に求めているものは、「不誠実な多弁」ではない。むしろ「愚直な誠実さ」だろう。だからこそ、菅氏のような手法で提起された「消費税増税」論は、「争点」となるのではないか。
「消費税増税をしないなら、国民はどのような道を選択すればよいのか?」と反問されるかもしれない。しかし「国民」全体が幸せになるような「よい」道などというものがはたして存在するのか?
私には、「政策」の背後にひそんでいる「利害」の在り処を不明にしたままで、「日本経済にとってのプラス」などという言説こそ、欺瞞にみちていると思われる。
「デフォルト」、「ハイパーインフレ」それとも「資本課税」か
しかしそれでも「財政が危機的状況になった場合、結局どのような対応が考えられるのか」と問われるかもしれない。
回答のひとつとして、ケインズの『貨幣改革論』での議論がある。
ケインズは「累積債務」が許容しうる比率を超えた場合とり得る方法として、まず、①債権の廃棄と②通貨の減価をあげる。これは最近よく話題になる「デフォルト」と、「ハイパーインフレ」。
しかしケインズはさらに、「資本課税」を科学的、合理的な方法として挙げる。ケインズは「資本課税」を「いまだ大規模に試みられたことはないし、また将来もないであろう」(注2)としながらも、また「(資本)課税は実際的見地からみても全く可能であり、同様規模の他の新種の課税に比べて非難の対称となることはない」(注3)ともいう。
以上を引用したのは、「資本課税」が「正しい」と主張したいためではない。
しかし―「正・不正」はともかくとして―国家の「累積債務」が持続不可能な規模になった時、債権=債務(という「ストック」)の不均衡は、「ストック」に対する『課税』(デフォルトやハイパーインフレも、ストックに対する『課税』である)がなければ、解決しがたいことは踏まえるべきではないか。
横並び『財政均衡』路線を採用すれば、世界経済は失速する
世界経済は、この間、横並びの財政支出と超金融緩和でようやく墜落を免れてきた。それをいま各国が一斉に「財政均衡」へと政策を転じたならば、再度失速するのではないか。
先の民主党のマニフェストが、「世界経済危機」の現実の前に崩れ去ったように、「消費税増税で強い財政と強い経済をつくる」などという今回の民主党「マニフェスト」も、「世界経済危機」の継続・再燃によって崩れ去る確率が高い。
いうまでもなく、財政の不均衡がここまで拡大した背景には、日本経済自体の「需給」の構造的な不均衡がある。
この不均衡を『外需』――特に北米市場(アジアを媒介にしているが)――に依存して埋めるという「路線」自体の限界をわきまえることなく、「消費税」増税で『財政均衡』を達成しようということ自体が、実は「空論」である。外交・防衛における対米「従属」とともに、選挙の「争点」にしなければならないのは、こうした日本経済のあり方ではないのか。
注1 スティグリッツの『フリーホール』(「第9章 経済学を改革せよ」)にこんなことが書いてあった。
[08年1月のダボス会議でスティグリッツたちが]「どのようにしてバブルが発達したか、バブルの破裂が何を意味するかを説明すると、最前列に座っていた各国の中央銀行総裁が、「誰も予測しなかったじゃないか」と声をそろえた。それに対して、ただちに、数年前からバブルを話題にしてきた少人数の集団が異議を唱えた。しかし、ある意味では、中央銀行総裁たちの主張は正しい。中央銀行関係者に信頼されていたエコノミストの中に、当時一般的だった見解に疑いを持つ者はいなかったのだ。ただし、それはこう言い換えることができる。一般的な見解に疑いをはさむエコノミストは、そもそも銀行に信頼されなかっただろう、と。」(ジョセフ・E・スティグリッツ「フリーフォール」徳間書店p.355~356)
注2 ケインズ「貨幣改革論」(中央公論 世界の名著69 p.213)
注3 同上p.215
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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