5月30日から7月19日まで広島市現代美術館で開催される予定だった同美術館と中国新聞社主催の特別展「無辜の絵画 靉光、竣介と戦時期の画家」が新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から中止となった。準備に2年かけた展覧会だった上にそのモチーフがユニークだっただけに、その中止が惜しまれる
この展覧会のために広島市現代美術館館は同美術館編の『無辜の絵画 靉光、竣介と戦時期の画家』と題する図録をつくった。発行は国書刊行会で市販されている。335ページ、定価3800円+税という大著だ。
これには、会場に展示されるはずだった164点の絵画の写真と、美術関係者による解説が収録されている。
これら164点の絵画の作者は26人にのぼるが、展覧会のタイトルからも分かるように、そこでは、とりわけ靉光(あいみつ)と松本竣介(まつもと・しゅんすけ)という2人の画家がクローズアップされている。
図録などによると、靉光の本名は石村日郎。1907年(明治40)に広島県北広島町の農家に生まれる。幼少期に広島市内の伯父の元へ養子に出される。小学校を卒業し、印刷所に勤めたのち、大阪、次いで東京へ。そこで、さまざまな公募展に出品したり、若い仲間とともにグループをつくって展覧会を開くが、1944年(昭和19)に召集され、妻、幼子3人を残して中国戦線へ。1945年(昭和20)の敗戦をそこで迎えるが、その後、病気で入院し、翌年1月、上海で亡くなった。38歳だった。その画風はシュールレアリズム的で宋元画の影響もあるとされる。
松本竣介は1912年(明治45)に東京で生まれた。一家あげて岩手県盛岡市に移住したが、14歳の時に聴覚を失い、中学を中途退学。1929年(昭和4)に東京に出て、洋画を学ぶ。その後、作品の発表を続けるが、戦後の1948年(昭和23)、36歳で病没した。モジリアニ、ルオー、ピカソらの影響を受けているが、日本的な描線を生かした清澄で抒情的な美しさに特徴があるとされる。
靉光、竣介以外では、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、鶴岡政男、寺田政明、長谷川利行、福沢一郎、山路尚、吉井忠、川口軌外、村井正誠、鳥海青児らが名を連ねる。いずれも、靉光、竣介と親交のあった画家か、2人の周辺にいた画家だ。
太平洋戦争中の1943年(昭和18)4月、靉光、竣介、麻生、糸園、井上、鶴岡、寺田らは東京で「新人画会」を結成する。同会によるグループ展は44年9月まで3回にわたって開催された。
幻となってしまった展覧会で取り上げられる予定であったこれら26人の画家には、共通点があった。それは、1930年代後半から1945年代前半にかけての時代を絵描きとして生きたということだ。つまり、昭和の戦時期を生きた世代であった。
この時期、画家たちは、生きる上でそれぞれ対応を迫られた。
東京都美術館で1977年、「靉光・松本竣介そして 戦後美術の出発展」が開かれたが、当時、同美術館学芸員だった森田恒之氏は、同展の図録の中で、こう書いている。
「1930年代なかばから始まった軍国日本への歩みは日一日と、あらゆる種類の自由を拘束し、戦争という名の極度に作られた緊張感の連続の中へ国民を追いこんでいった」
「少なからぬ画家たちが美術報国会や陸・海軍美術会に参加して自らの意図するところと関係なく戦争絵画の絵筆をとった」
「多少たりともリベラルな傾向を持つあらゆる団体の集会や会合への統制が続けられた時期に、靉光、松本竣介、麻生三郎、井上長三郎、鶴岡政男など精神の自由を尊ぶ同志たちたちが集って『新人画会』を結成し、終戦前年までその意志を発表し続けたことは一種の驚異に価いする」
靉光、竣介とそれに連なる一群の画家たちは、時流に乗ることを潔しとせず、「精神の自由」を求める画業を貫こうと苦闘したのだった。中止になった「無辜の絵画 靉光、竣介と戦時期の画家」展は、こうした一群の画家たちに光を当てようという催しだったのである。
こうした今回の展覧会の狙いは、『図録』の冒頭に収められた寺内淳治・広島市現代美術館館副館長の「序にかえて」で言い尽くされている。
それによると、過ぐる戦争では無辜(むこ)の人民がいたという。「無辜の人民」とは「たまたま・そこに居合わせた(その時代に生まれ合わせた)ために、戦火・殺傷事件などのとばっちりを受けて、しいたげられ迷惑する住民たち(新明解国語辞典)」だそうだ。
そして、寺内副館長は、こう続ける。「戦争末期、アメリカによる東京をはじめとする無差別爆撃や、沖縄への上陸作戦での非戦闘員を殺傷したような戦時の事実については多くの証言がありますし、終戦直後の満州で日本人がどのような生活を送ったのか、勝者であるロシアや中国がどのような蛮行を繰り広げたのかについて、参考にする記録もたくさんあります。一方で、それ以前に、朝鮮半島をめぐる清やロシアとの戦争(日清、日露)、漁夫の利を得たといわれる第一次世界大戦、そして日中戦争において、勝者となり、侵略に狂いたった日本(大日本帝国)の非道な行為にも思いを巡らせなければならないでしょう。そのような事実を伝えることがだんだんと少なくなってきているようにも思いますが、うやむやにしてはならない過去があることを自省を含め書き留めておきます」
副館長にしてみれば、画家にも「無辜の人民」がいたということだろう。そうした事実を、終戦75年・被爆75年という節目をとらえて、広く市民に伝えたかったということだろう。展覧会のタイトルに「無辜の絵画」と銘打ったのもそうした思いがあったからだと思われる。
そのためだろう。「序にかえて」は「戦争中にはいわゆる戦争画を描き、戦後はそれをケロッと忘れたかのように、ほがらかな絵を描いている画家」には厳しい目を向け、「ケロッと転換できるような人たちを無辜の民とは呼べません」としている。
その一方で、「序にかえて」は、戦争中に多くの翼賛的な詩を書いたことを深く恥じて戦後、岩手県の寒冷地に移住し、掘っ立て小屋で自省の日々を送った高村光太郎(彫刻家・詩人)を高く評価している。
ともあれ、靉光、竣介と、それに連なる一群の画家たちをまとめて呼ぶ呼称はこれまでなかった。これからは「無辜の絵画」派と位置づけるのがふさわしいのではないか。
「無辜の絵画 靉光、竣介と戦時期の画家」展が中止になったのはなんとも残念だが、それを追いかけるように、うれしいニュースが飛び込んできた。群馬県桐生市にある大川美術館が、今年10月10日から12月13日まで、『靉光と同時代の仲間たち』と題する展覧会を開催するというのだ。同美術館は竣介の作品を所蔵していることで知られる。広島で見られなかった靉光と竣介の作品が、ここで鑑賞できそうで、靉光と竣介のファンにはまたとない機会となるにちがいない。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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〔opinion9960:200723〕