はじめに
その昔、マルクス(Karl Marx)は「貧困の哲学」から「哲学の貧困」を書いて社会主義へ向かう階級闘争到来の夜明けを告げた。それは、資本主義社会の抱える問題がプルードン(Pierre J. Proudhon)的な「平均主義」的な方法では今や解決困難な限界に達したことを告げる予言でもあった。そして、後に起きたロシア革命を通じて世界政治は革命体系へと突入、あたかも問題が社会主義により解決するかのような観を呈した。その結末として生まれたのが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)であった。北朝鮮は東西冷戦の終焉後も、依然として「ウリ(我々)式社会主義」を標榜し続けている。
筆者は福岡県日朝友好協会顧問として去る4月23~28日に北朝鮮を訪問し、彼らが目指す「強盛大国」の実態を目の当たりにした。本稿は、この訪朝報告であると共に、そこで考えた筆者の独断的な意見陳述である。今回の訪朝にあっては、日本政府から北京大学を通じて受けた依頼、すなわち日本の新しい朝鮮政策に関して北朝鮮の反応を調査してほしいという依頼を実践した結果が現れたので、その結果についても記述したい。もちろん、本稿の記述に誤りはないと信ずるけれども、その解釈にあっては識者により多様な異見が可能であろう。願わくは、適正なご批正を乞う次第である。
以下、本稿では今回の訪朝報告、新しい朝鮮政策に対する反応調査の結果、そして筆者の独断的な意見陳述を順に示して、いつもながら最後に日朝国交正常化の必要性を強調することで拙稿をまとめたい。なお、本稿では一切の敬称を省略することを予めお断りしておく。
Ⅰ.「独裁の貧困」から「貧困の独裁者」へ
今回の訪朝は、いわゆる「強盛大国の大門を開く」という北朝鮮のスローガンに合わせ、本来は4月11~17日を予定していた。ところが、例の「光明星3号」発射騒動により訪朝する予定の福岡県議が訪朝を取り止めたことから、北朝鮮からも日程変更を要求、結局は4月25日の朝鮮人民軍創建80周年の閲兵式観覧に焦点を置いて訪朝することになった。
今回の訪朝日程を示すと、次頁のとおりである。今回も初参加の人々のため、いわゆる訪朝の「定番」を回ることになったが、筆者は毎年の訪朝経験から多くの変化が見受けられないかと見聞を逞しくした。特に、今回は「強盛大国」から「強盛国家」へと到達目標のレベルを低下させたものの、どれほど北朝鮮が経済発展したのか興味津々であった。
結論的に言って、都市部でのハコモノ建設は立派になされていたが、どれほど住民の生活が向上したのか疑問が多い見聞とならざるを得なかった。確かに平壌でも地方でも、まだ建設途中の観を呈していて、一概に住民生活の向上如何を断ずることはできない。しかし、我々が宿泊した高麗ホテルでの朝食では果物の提供がなく、また提供されるコーヒーは1杯だけと限定されていた。同時期に逗留した日本人観光客がコーヒーを3杯も要求し、筆者が観光客と給仕との間で通訳を務めて、その事実を彼女に知らせる一幕もあった。
(図表)福岡県日朝友好協会の訪朝日程と訪朝中の行事について(全て現地時刻)
月日 | 時刻 | 行 事 | 参 考 |
3/23 | 14:40 | 福岡空港を出発 | |
18:50 | 北京首都国際空港に到着 | 北京宿泊 | |
3/24 | 12:55 | 北京首都国際空港を出発 | |
16:00 | 平壌空港に到着、高麗ホテルへ移動 | ||
18:30 | 朝鮮朝日友好親善協会幹部と意見交換 | 高麗ホテル | |
19:00 | 歓迎宴会 | 同上/平壌宿泊 |
3/25 | 9:30 | 万寿台の金日成・金正日の銅像を参観 | 雨天のため各行事を簡単に実行 |
10:00 | 万景台の金日成生家を参観 | 朝鮮人民軍創建80周年閲兵式なし | |
10:20 | 生家の近くで記念の松を植樹 | ||
12:10 | 平壌駅ちかくの「駅前食堂」で昼食 | 平壌宿泊 | |
17:00 | 国家産業美術展示会を参観 | ||
18:10 | ビール店を参観 |
3/26 | 7:40 | 板門店視察へ高麗ホテルを出発 | |
10:00 | 板門店に到着、視察 | ||
12:55 | 開城の子男山旅館で昼食 | 善竹橋など視察 | |
17:25 | お土産店で買い物 | 平壌宿泊 |
3/27 | 9:05 | 主体思想塔を視察 | |
9:45 | 金日成花金正日花展示館を参観 | ||
11:10 | 牡丹峰第一中学校を参観 | ||
14:50 | ハナ音楽情報センター視察 | ||
15:55 | 斗団あひる工場を視察 | ||
17:05 | 万寿台創作社を外部から参観 | ||
18:30 | 答礼宴会 | 平壌宿泊 |
3/28 | 9:15 | 平壌空港を出発-北京-上海-福岡空港に帰着 |
上の図表から分かるとおり、朝鮮人民軍創建80周年の閲兵式は4月15日に行われた軍事パレードで代替され、さらに当日に行われるはずの記念講演会も前日の24日に前倒しされてしまったので、25日午後から我々は、大いに飲み食いして時間を過ごす外なかった。この飲み食いに訪れた「駅前食堂」は、在日朝鮮人が平壌駅前に出した小さな出店と同様、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の肝煎りで建設された清潔で快適な食堂であった。説明では、日本人の食味に合うよう味付けがしてあるということで、我々は朝鮮料理を堪能しながら祭日を過ごした。
図表の中に示した平壌市内の参観や板門店の視察は、いつもながら北朝鮮が準備するお決まりのコースである。しかしながら、今回の100周年行事で新たに建設された「ハナ音楽情報センター」視察は、特筆すべき訪問であった。そこは、昨年12月17日に急逝したとされる金正日が、死去の数日前に訪れた場所だったからである。我々を案内した「案内員同志」は、センター1階に設置されたスクリーンが映し出す金正日の在りし日の姿を横目に、我々に彼の訪問時の様子を哀感も豊かに説明した。
要約すれば、金正日は忙しい中で同センターを訪問し、立派に建設された様子に満足した模様であった。ところが、施設の一部にネジが緩んでいた箇所があり、金正日は手ずからネジを締め直したのだという。その時、その施設のどこかが彼の手袋に引っ掛かり、それを金正日が振り払おうとした弾みに、周囲の人たちは彼の手袋を見ることになった。驚くべきことに、彼の手袋には穴が空き、とても古びていたのだった。
案内員同志は、金正日がただ人民の幸福のため、昼夜を分かたずに見窄らしい姿でも現地指導に出かけたのだと説明した。その結果、その時期には極めて疲労困憊していたのだが、彼は自分の健康も顧みずにセンターを訪れた。そして、別室に設けられた映像上映施設で作品を観賞までしたのだという。ところが、作品を上映し終わっても、金正日は椅子に座ったまま動こうとしなかった。周囲の人たちは、彼が更に別の作品を観賞したがっているのかと疑った。けれども実際には、彼は椅子に座ったまま、疲れのため眠り込んでいたのである。
この一連の話を聞きながら、筆者は我知らず涙の流れるのを禁じ得なかった。もちろん、当日の昼食に飲んだ大同江ビールが残っていて情緒的に緩んでしまっていたこともあったが、それよりも大切だったのは、この死去に先立つ数日前に行われた金正日の現地視察には、後継者と指名されていた金正恩が同行していたからである。父と子、2人が一緒にいて、子が父の見窄らしい姿や疲労困憊の様子を間近に見ながら、その父を救ってやれなかったのかと思うと、つい涙が流れたのであった。
金正恩が死ぬほど疲れた金正日の姿を目の当たりにしていて、休養を取らせなかったとすれば、そこには二つの理由しか考えられない。ひとつは、父の体調を勘案できずに結果として死亡させてしまうほど、その子が馬鹿者だったという理由である。もう一つとして子が父の後継者であるにも関わらず、父の行動を制止する発言力がなかったという理由である。もちろん、子が後継者の地位を狙い、意図的に父に無理を重ねさせたのではないかという悪意ある想像も可能である。だが当時、未だ金正恩が後継者としての地位を固めていなかった状態で、このような危険な冒険に打って出たとは考えにくい。
したがって、もしも案内員同志の話が事実であるとすれば、金正恩が馬鹿者か未熟者か、そのどちらか、ないしは両方だったというのは、ほぼ間違いないであろう。この話を聞いて筆者は、自分の愚息どもの顔を思い浮かべながら、彼らが死にそうな父親を果たして助けられるか、あるいは助けようと必死になるだろうかと思い浮かべて、何とも侘びしい気持ちにならざるを得なかった。当然ながら、その話が作り話であれば、このような話をでっち上げなければならない北朝鮮のお寒い内部事情が透けて見えるであろう。
周知のように、金正日は北朝鮮の経済を破綻させても核やミサイルの開発を推し進めた。いわば「独裁の貧困」が北朝鮮において多くの脱北者や餓死者を生み出したのである。ところが今や、破れた手袋が象徴するように「貧困の独裁者」が登場し、実際に朝食ではコーヒーが1杯だけしか飲めないという条件が示されたのである。将軍様が見窄らしい姿で現地指導されていたのに、どうして我々が贅沢を求められようか-この子ども騙しのような話を受け入れられるとすれば、どれほど北朝鮮の住民たちが貧困の中で暮らしているのか推測するのに余りあると言うものである。
Ⅱ.日朝国交正常化交渉の再開に対する北朝鮮の態度
今回の訪朝を通じて果たすべきミッションは、ただ飲み食いして楽しむことでは決してなかった。詳細は明らかにできないけれども、今回の訪朝には日本政府の新しい朝鮮政策を北朝鮮に打診し、それに対する彼らの反応を調べるという使命があった。このミッションは、訪朝の計画が立てられる遙か以前の昨年11月に浮上し、今回の訪朝で実践に移されたのである。
この新しい朝鮮政策は、実際に日本政府が構想しているものの、これを北朝鮮が受け入れるかどうか不明のため、軽々に明かせない性格を持っている。つまり外交上の常識ながら、国家間の外交的な駆け引きからして双方の政府が合意する時にだけ政策を公開し、これを両政府が推進していく形をとるのが常である。初めから手の内を明かして思わぬ失態を招くことは、かつて韓国が北朝鮮に南北首脳会談を持ち掛けた際、いわゆる「金封筒」を渡し損ねた事実を北朝鮮から公開されて、大恥をかいたことからも容易に推測できよう。
ここでは政策の内容を明かさずに、北朝鮮の打診に対する反応だけを示せば充分である。なぜならば、北朝鮮は打診そのものを拒否したからである。彼らが拒否した理由は、大別して2つであった。ひとつは日本と北朝鮮、両政府間の交渉に北朝鮮の党組織が介入すると、権限逸脱ないしは越権行為という問題が起こりかねないという理由であった。本来は朝鮮政府とくに北朝鮮の外務省が担当する仕事である国交正常化交渉に、どのような形であれ党組織が関与し、その事実が露見する場合、北朝鮮の国内では問題化する危険が大きいというのであった。リジッドな組織社会ならではの理由とも見られよう。
もうひとつの理由は、仮に日本政府が実効性ある朝鮮政策を持っていたとしても、それを執行する日本政府すなわち現民主党政府が明日にも倒壊する可能性があるのに、そんな政策の打診に応えるどんな意味があるのか、というのであった。ちょうど4月26日(木)、日本民主党元代表の小沢一郎に対する東京地裁の判決が無罪と出た時期で、この判決から民主党内が右往左往した様子を北朝鮮でも注意深く観察していた。また、消費増税法案の通過のため、衆議院の解散・総選挙というシナリオが日本国内で噂されている事実も、ちゃんと北朝鮮は理解していた。
このように、日本民主党政府の存続可否とそれに伴う政策の継承可否、これこそ北朝鮮が打診を拒否した最大の理由であった。いつ政府が替わるのか、また総理大臣が明日そのまま続投するのか、日本人の目で見ても頼りない政治状況なのに、外国から見た場合このような不透明性は更に甚だしくなるであろう。詰まるところ、北朝鮮は日本政府が安定的に存続することが確信できない限り、いかに斬新であったとしても日本の朝鮮政策を真に受けることはないし、その打診に対応することもないと思われる。
言うまでもなく、北朝鮮そのものは先の朝鮮労働党第4次代表者会を通じ、形ばかりでも金正恩を最高権力者として推戴、いわゆる「三代世襲」の実行に踏み切ったことで、比較的に安定的な権力の継承に成功したように見える。その一方で北朝鮮は、前述のように「光明星3号」発射に失敗して後、3回目の核実験を敢行するのではないかという危惧の広まる中、米国や中国との関係が極度に悪化している。北朝鮮は今後どのように局面を打開していこうとするのか、筆者の独断的な見解を披瀝してみたい。
Ⅲ. 「弱衰小国」へ転落する北朝鮮
結局のところ、北朝鮮の「強盛大国」へ向かうという一連の運動は、以前「ちきゅう座」掲載の拙稿で指摘したとおり、その成敗が経済と外交の成否にかかっている(森善宣「『強盛大国の大門を開く』のは中国 ―行きはよいよい、帰りは怖いの北朝鮮情勢―」、2011年8月28日)。このうち経済については前述したように、それほど著しい成果を収めているとは言い難いと判断でき、昨年の訪朝の際に広大なリンゴ栽培園を見学した分だけ一層、高麗ホテルで果物が提供されなかった事実が注目される。
もう一つの外交に関して言えば、我々が今回の訪朝で北京に到着するのと前後し、朝鮮労働党国際部長の金英日が中国政府国務委員の戴秉国、中国共産党対外連絡部長の王家瑞、さらには国家主席の胡錦涛らと会談したものの、報道される内容とは全く逆に中国側の反応は極めて悪かったという。中国側は「光明星3号」発射に強い不快感を覚えているだけでなく、これを支点として米国から圧力を受けることになったのを嫌っているらしい。
確かに米国政府北朝鮮担当特別代表のデービース(Glyn Davies)が、去る2月13~14日に北朝鮮との会談で「光明星3号」発射の意味を誤解したのが事実としても、米国政府としては北朝鮮よりもイランの核開発に対して遙かに関心を集中させざるを得ない以上、大統領選挙が加熱している当分の間、北朝鮮の相手をしている余裕はなかろう。反対に北朝鮮も北朝鮮で、来る11月の米大統領選挙の結果として米共和党候補のロムニー(Mitt Romney)が当選でもしようものならば、現オバマ(Barack Obama)米民主党政府とは比較にならないほど強い圧力を受けるのは必定であるから、鋭意その展開を見守らざるを得ない状況にある。特に今回は韓国の大統領選挙が12月に続くので、セヌリ党(旧ハンナラ党)非常対策委員会委員長の朴槿恵が当選し、米共和党政府の強硬策に同調しようものならば、体制の存続に関わる窮地へ追い込まれる可能性もある。
ここから金正恩政権の内部に亀裂が生じる危険もないとは言えないであろう。韓国で北朝鮮の世襲問題について権威とされる世宗研究所の鄭成長によれば、現在のところは故金正日の妹である金敬姫とその夫である張成澤が、いわゆる「金王朝」の存続に必要な位置を占めつつ睨みを効かせている。そして、故金日成のパルチザン時代の同僚だった故崔賢の息子である崔竜海が、金正日の死後に平壌衛戍司令官(首都防衛司令官)に任命されたのを受けて、今や労働党総政治局長という軍隊内で党を牛耳る地位にまで昇り詰めている(鄭成長「北韓労働党第4次代表者会とパワー・エリート変動」、『情勢と政策』2012年5月号(通巻193号)、世宗研究所)。この「竜海」という名前を持つ彼は、金日成が自ら命名した2人の子どものうちの1人であり、金日成、金正日に代を次いで忠誠を尽くしていることで知られている。当然かれは、金正恩にも忠誠を捧げるであろう。
しかしながら、このようなパワー・エリートの変動に伴い、金ファミリーとその最側近が権力の核心に座るようになったとしても、それ以外の従来の重鎮たちが果たして自らの処遇に満足しているのであろうか。故金正日の「遺訓」の内容は必ずしも明らかではないが、仮に伝えられるとおり内容の核心が「家族独裁」の維持にあるとすれば、そこから排除された者たちは面白いはずがないであろうことは、容易に想像がつくのである。この「家族独裁」の形成過程については、筆者が寄稿した拙論を参照されたい(森善宣「粛清と独裁:北朝鮮における『三代世襲』の起源とその政治的属性」、東アジア学会創立20周年記念事業『北東アジアにおける平和と共生』所収、東アジア学会機関誌『東アジア学会研究』増刊号、東アジア学会政治部会編、東アジア学会、2012年)。
しかも韓国の『中央日報』2012年4月13日(電子版)が報じたとおり、この「遺訓」が指示する最も重要な対外的な内容、つまり要約すると①中国を警戒せよ、②6者協議を利用せよ、という指示が仮に本当であるとすれば、金正恩政権は①も不可能、②も出来ないという窮地に立つことになる。②に関しては現在、天安艦事件や延坪島砲撃などから韓国がその再開に慎重な姿勢を崩していないが、北朝鮮では「最高尊厳」たる金正恩に関する現韓国大統領の李明博による発言を問題視して、「鼠明博」だの「李明博ネズミ小僧徒党」だのと最大限の罵声をあげる職場集会を各地で行い、その模様をテレビで放映する熱の入れようである(写真A参照)。これでは到底、6者協議の再開は不可能である。
この「ネズミ」と李明博を表現するのは、おそらく彼の面持ちが鼠に似ているところから来たものであろうが、もともとは韓国で金大中の死去後に用いられ始めたようである。例えば、金大中の葬儀に際してソウル市庁前の市民広場で見た風刺画には、李明博を暗示するかのように「行動しない良心は悪の側、鼠の側」と書かれていた(写真B参照)。もちろん、金大中その人が李明博を「ネズミ」などと野卑な表現で罵ったことはなかったものの、いわゆる韓国で金大中から盧武鉉へ続く「進歩革新」勢力からすると、李明博に代表される「反共保守」勢力は「鼠」と表現したくなる対象だったのであろう。これを知っている北朝鮮とすれば、この韓国の「進歩革新」勢力にアピールする意味で今回、大騒ぎしている側面があるかも知れない。
思うに北朝鮮は、中国を唯一の頼みとして「強盛大国」を建設しようとしても「遺訓」が彼の国を信ずるなと言い、韓国と手を結びたくても当面はネズミどもが邪魔をする、そして米国との関係改善を望んで気を引こうとしたが「光明星3号」は失敗、大統領選挙と前後して彼らの目は中東へ向いたまま、というトリレンマに陥っているのである。北朝鮮が経済的に中国や韓国から支援を受けられず、外交的にも対米関係を改善できないならば、金正日の「遺訓」とは反対に、北朝鮮が「弱衰小国」へ転落していくことは明白である。
したがって、当面は北朝鮮に目立った動きは期待しにくいし、今回の打診が拒否されたように、当面こちらから働きかけても反応しないという状態が継続するであろう。逆に、だからこそ今が日朝国交正常化交渉の再開を準備する絶好の機会だと言え、その必要性を認識するのに、これほど良い状況はないとも言える。結論的に言えば、いま北朝鮮を助けることができるのは日本しかなく、北朝鮮が現状を打開するには日本と結ぶのが最も早道なのだから、今なぜ日朝国交正常化が必要なのか自ずと明らかになるであろう。
Ⅳ. 今なぜ日朝国交正常化が必要なのか
去る5月15日は、沖縄が米国から日本に返還されて奇しくも40周年に当たる。米軍の完全撤収という沖縄の人々からする命の叫びとは反対に、日本国内では自由民主党が憲法改定により自衛隊の海外派遣や集団的自衛権を合法化しようとする動きを見せている。のみならず、石原東京都知事が橋下大阪市長ら一部の首長たちと手を結ぶ動きを示す中、尖閣列島を都が買い入れるという話まで飛び出して中国を刺激、訪中した野田総理は胡錦涛から相手にされない羽目に陥る等、ますます日本の閉塞した政治外交の状況は混迷の淵へと沈みつつある。日本国内から起きる変化は「橋下総理」の掛け声とは裏腹に、初夏に響く遠い雷鳴のようで、一般市民にはひたすら節電が求められるばかりである。
このような中で唯一、日本と国交のない近くも遠い国がある。それが北朝鮮である。この国を事態の改善や現状打破に使わない手がどこにあろうか、と筆者は北朝鮮研究者として常々かんがえてきた。これまで北朝鮮の起こした「拉致問題」ゆえに、日本では大局から政治外交情勢を見ることができず、ひとえに北朝鮮との間で摩擦ばかりを繰り返してきていた。要するに北朝鮮は「ならず者」国家として、一種のお荷物としか受け取られず、彼らを活用するという視点が日本の政治外交にあっては決定的に欠けていたのである。
だが、正に北朝鮮が「弱衰小国」に転落しつつある今こそ、日本が時機を逃さずに北朝鮮と国交正常化交渉を再開して、拉致被害者たちを探し出すと同時に、そこに住む人々を助ける好機である。そして国交正常化を果たす中で、一方で北朝鮮に西側の風を吹き込んで「和平演変」を誘導、日本に友好的な政権へと変えていき、他方そこから日本の影響力を中国のそれと同様に南北朝鮮へ及ぼして、これを支点として尖閣列島など争点となっている問題でも南北朝鮮と共同戦線を張る外交を考えるべきである。さらに、北朝鮮には豊富な地下資源が未だ手付かずに眠っていて、レア・メタル問題に悩む日本にこそ、かつて植民地時代に行った調査をもとに、その発掘から開発へ進む有利な条件が揃っている。
最初の取っ掛かりは困難かも知れないが、北朝鮮が「拉致問題」解決の条件を飲むのと引き替えに、日朝平壌宣言で定められたとおり日本から経済協力方式で相応の代価を与えれば、国交正常化交渉は再開できるであろう。もちろん、与えた代価は日本へ環流するように措置しておけば、日本の沈静化した経済の立て直しに寄与こそすれ、決して無駄金になることはない。問題は、日本の政局が安定して、北朝鮮にも日本の朝鮮政策を聞く耳ありという状況を作り出すことである。このためには、今回の訪朝で試みようとした政策の打診を繰り返して、むしろ北朝鮮と協力して日朝両国に受け入れられる線にまで政策を調整していくことが大切である。
筆者は、このような北朝鮮へのアプローチを「タケル作戦」と命名したい。その昔、日本武尊(ヤマトタケル)が九州の熊襲を征伐した時のように、やさしく相手の懐へ跳び込み、その首魁の息の根を止める、あれである。言うまでもなく、我々は金正恩の命を取ろうというのではなく、北朝鮮から反日的な要素を除いて友好親善を実現する、有り体に言うと親日的な政権を作り出すのが目的である。この政権の変革なしに北朝鮮から拉致被害者を助け出すことは、ほぼ不可能に近いと言っても決して過言ではなかろう。北朝鮮のような「弱衰小国」が強面の外交に反発するのは必至だとすれば、反対に「包容政策」で雅量を示して胸襟を開かせるのも、また日朝関係改善の捷径であり、実際そこにいるのが人間である以上、自然な人情なのである。
おわりに
北朝鮮がトリレンマに陥っている今こそ、「タケル作戦」は実効性がある。あとは日本政府がまともに存続し、政策の継続性を国内外に示せるか、それだけが残っている。とは言え、北朝鮮が当面は動かないのがはっきりしているだから、少なくとも朝鮮政策という点においてだけは、我々に日本国内の政治情勢が安定化するのを待ちながら、北朝鮮との国交正常化に向かう世論を盛り上げていく時間的な余裕があるとも言える。
筆者は今後も機会があるごとに北朝鮮へ飛び、現地の情勢を視察すると共に、北朝鮮から見る日本認識をモニターして、読者諸氏にご報告したいと思う。そして「百聞は一見にしかず」の名言どおり、いかに北朝鮮が日本にとって危険の少ない「弱衰小国」かを、訪朝結果の紹介を通じて広報したい。読者諸氏の中で訪朝希望の方がいらっしゃれば、政治的な信条や主義とは無関係に、是非こちらへご一報お願いしたい:morizen6@hotmail.co.jo
写真A:鼠明博を痕跡もなく討ち果たせ!
写真B: 金大中「行動しない良心は悪の側、鼠の側」 盧武鉉「ゆっくりいらして・・・・・」
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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