「異邦人たれ」──周回遅れの読書報告(その74)

 昔、抜粋を書き写したカードを小さな箱のなかに入れて机の上においていたことがあった。かっこよく言えば、「未整理カードボックス」とでもいうものである。実際には随分長いこと整理してないカードボックスもあった。ある時、意を決して、この未整理カードを捨てた。ただ、なかには、忘れがたい抜粋(あるいは抜粋もどきのモノ)もあった。以下のものは1996年に作ったものだという記録がある。未整理カードの中には、もっとずっと古いものもあったから、1996年に書いた(作った)カードなどはまだ新しかった方かもしれない。二枚のカードには似たようなことが書いてあった。
 一枚は、1996.3.6の日付があるカードである。

Independentであること
Étrangerであること
そして何よりも
あらゆることから自由であること
         殿山泰治から学んだこと

 もう一枚は、1996.6.1の日付があった。

わが祖国にありて
異邦人となるの心を失うな
         石橋 湛山
  (高橋哲雄『二つの大聖堂のある町』の紹介による)

 前者は、殿山泰治の『JAMJAM日記』か『三文役者アナーキー伝』かを読んで感じたことであろう。後者は、別に石橋湛山のことを調べる気で読んだわけではなく、全く偶然、高橋が石橋湛山のことを書いていたに過ぎない。今考えると、三冊とも印象に残る本であるが、このカードを処分する際に思い切って大量の書籍も処分したようで、『JAMJAM日記』、『三文役者アナーキー伝』そして『二つの大聖堂のある町』も、一緒に処分してしまったらしく、三冊とも手許にはない(『三文役者アナーキー伝』だけは後で買い直した)。軽々に蔵書は処分してはならないということだ。
 この両方のカードに、Étranger、異邦人たれという、同じ意味の言葉があった。つまらぬ同調、あるいは付和雷同、横並び主義はやめよということでろう。異端となることを懼れてはならぬということである。ともすれば、事なかれ主義に走りがちの自分自身の気持ちを諫めるつもりで書いたのかもしれない。今もう一度この言葉を噛みしめる必要がありそうだ。「Étrangerであること、異邦人であること…………」。

 ずいぶん昔にこんなことを考えたことがあったなあ、と思っていたら、最近読んだある本にも、異邦人の眼をもって自分の国と社会とをみることの重要性が指摘されていた。「Étrangerであること、異邦人であること…………」が決して容易ではないということであり、それが極めて大切なことでもあるということであろう。
              殿山泰治『JAMJAM日記』ちくま文庫、1996年
               同『三文役者アナーキー伝』ちくま文庫、1995年
          高橋哲雄『二つの大聖堂のある町』ちくま学芸文庫、1992年

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〔opinion8024:180923〕