■明治維新の近代・17「祀る神が祀られる神である」
ー和辻哲郎『日本倫理思想史』を読む
「それは絶対者をノエーマ的に把捉した意味での神ではなく、ノエーシス的な絶対者がおのれを現わしてくる特殊な通路としての神なのである。従ってそれは祭り事と密接に連関する。祭り事の統一者としての天皇が、超人間的超自然的な能力を全然持たないにかかわらず、現神として理解せられていた所以は、そこにあるであろう。天皇の権威は、日本の民族的統一が祭祀的団体という形で成立したときに既に承認せられているのであって、政治的統一の形成よりも遙かに古いのである。」
和辻哲郎『日本倫理思想史』上巻
1 最高の祭祀者天皇
昨年行われた天皇の代替わりの儀式は、剣璽等の継承と即位礼を経て大嘗祭によって完了したとされる。所功は大嘗祭の意義について、「大嘗祭の意義については、さまざまな説が提唱されてきました。しかし平安時代中期(927年撰上)の『延喜式』などから、天皇が皇祖神から授けられた食べ物を神々に供え、御飯・御粥と白酒・黒酒を自ら召し上がる。それによって「皇御孫命(すめみまのみこと)」として霊威を更新され、国家と国民の末永い平安を祈られる大切な祭である」[1]と説いている。新天皇が皇孫としてその霊威を更新し、国家・国民のための新たな祭祀者(神を祀り、神に祈る者)になる儀式が大嘗祭であるとすれば、それは即位儀礼の付加的儀式ではなく、むしろ最も意味の重い伝統的儀式であり、所がいうように即位礼もこれによって「完了したとされる」ような中心的儀式であるといえるだろう。だが昨年行われた天皇代替わりの即位礼は大嘗祭を伝統による余儀なき付加的儀礼とすることによってそれがもつ重大な意義を隠してしまった。何が隠されたのか。それは新たに天皇に即位するということは、国家・国民のための新たな祭祀者(神を祀り、神に祈る者)になるということである。このことこそ脱国家神道的な現行憲法下で隠微に相続されていく天皇制の本質なのである。
だが現行憲法下で隠微に相続されていく祭祀的天皇制をいう前に、昭和の天皇制的全体主義をもたらした明治の「王政復古」という新たな天皇制の創出をかえりみておく必要がある。津田左右吉が明治維新とこの維新遂行者による国家形成に強い違和感をもったのはこの点にあった[2]。津田がいう通り「王政復古」とは明治維新という政治改革の反徳川的遂行者が掲げたスローガンであった。これをもって彼らのクーデターを正当化したのである。だがこのスローガンは明治維新という日本の近代化改革に復古主義あるいは天皇主義を深く刻印していくことになった。明治国家はやがて憲法を制定し、議会を設けて近代国家的体制を整えていくが、天皇制的支配の国家原則は貫かれ、「国体」の理念は20世紀の国際的、国内的危機を通じていっそう強化され、やがて昭和とともに国民を天皇制的全体主義国家の内に包み込んでいくことになるのである。その際、天皇は超憲法的な最高の神道的祭祀者として「国家神道」的イデオロギーの中枢に存在することになる。総力戦という国民の生命をも総動員した昭和の戦争を可能にしていったのはこの天皇制的全体主義であった。
数年来、日本で「明治維新150年」がしきりにいわれた。それとともに「明治維新」と「日本近代史」の読み直しが盛んになされてきた。しかしそれらは決して「日本近代」の批判的な問い直しではない。「明治維新」再評価の代表的な著述(三谷博『維新史再考』2017)では、西洋的近代国民国家のグローバル的形成のアジアからのいち早い応答として、さらに成功した実現例として明治維新と明治国家の成立がとらえられている。これは「明治維新150年」がいわれる現代日本の近代史家による代表的な再評価の言説である。
ここにはわれわれが明治維新や日本近代史を再考する際の不可欠な前提であった〈昭和日本の15年戦争〉もその〈敗戦〉もない。歴史家におけるこの欠落は、現在日本の政権が歴史修正主義者によって長く掌握されていることに対応するような歴史学的事態だといえるかもしれない。少年時に戦争日本・敗戦日本を体験した私は昭和の15年戦争と1945年の敗戦という事態を外にして明治維新も日本近代史も見ることはしない。むしろ私は明治維新と日本近代化の最終的な帰結が昭和の15年戦争であり、敗戦であったと見ている。それゆえ「王政復古」の維新を近代的「主権」の原理に適合する天皇制的国家体制を作りだした近代化改革などとは解しない。むしろ昭和の天皇制的全体主義国家を生み出す原因をなすような政治権力体制へのクーデター的政権交代が明治維新であったと私は見るのである。そして統治大権をもち、統帥権をもち、そして憲法を超越する祭祀大権をもつ天皇とはこの全体主義国家日本の最高の権力的体現者であったのである[3]。
いま「祭祀大権」という耳慣れない概念をいったが、これは国家神道にかかわるものである。周知のように帝国憲法もまた政教分離という近代国家の原則をもっている。もし神道を宗教とすれば、神道もまた政教分離の原則に従わねばならない。そこで神道の国家性・国民性を主張する人びとは神道を宗教とは異なる祭祀体系だとしたのである。こうして天皇を最高の祭祀者とした国家的祭祀体系としての「国家神道」が成立することになる。この最高の祭祀者たる天皇を「祭祀大権」の所有者というのである。そして天皇を最高の祭祀者とした国家神道こそが昭和日本を全体主義化する最大の精神的動因をなすものであったのである。
それゆえ日本の軍国主義的国家体制の解体をめざした占領軍は「神道指令」(1945年12月)を発した。これは国家神道の解体をめざしたものである。その上に日本国憲法は国及びその機関はいかなる宗教的活動をしてはならないと政教分離の原則を再規定しました。これは帝国憲法の政教分離の原則を骨抜きにした天皇を最高の祭祀者とした国家神道の復活を許さないものであったはずである。ところが平成という時代になって天皇の強い意志によって繰り返しなされた戦争犠牲者に対する追悼行為などが「祈り、祀る天皇」という肯定的な天皇像を国民の間に生み出していった。だが「祈り、祀る天皇」とは国民の最高の祭祀者としての天皇をいうものであったはずである。「祈る天皇」に共感しながら国民は国家神道の中枢にあった最高の祭祀者天皇を呼び起こし、みずからの内に呼び入れてしまったのではないか。
「祈る天皇」に対するこの疑いを私は新天皇の即位の儀礼がはじまりつつあった昨年の終わりの時期に二つの講演会で語った[4]。この講演会のいずれの会であったか、「最高の祭祀者である天皇がどうして国民の畏敬の対象として、国民に祀られる天皇になるのか」という質問を受けた。この問いはある程度私の予期するものであった。天皇を最高の祭祀者というだけでは国民を巻き込んだ昭和の天皇制的全体主義の成立を説くことにはならない。天皇が最高の祭祀者になることが、同時に天皇が国民による最高の畏敬の対象になることの理由を解き明かすことではじめて私は上の疑いに答えたことになるだろう。この問いへの私の予想は、同時にその答えへの予想でもあった。「祀る天皇」を記述しながら私は「祀る神は祀られる神である」という和辻哲郎による「日本の神」についての性格規定を思い浮かべていた。だから私は上記の質問に和辻の「日本の神」についての「祀る神が祀られる神である」という性格規定がその答えになるだろうといった。私はその時ただ答えを暗示的にいうだけであった。この答え方はさらに充分な言葉をもって補うべき責めを負っている。私は「日本の神」をめぐる『日本倫理思想史』上巻・第一篇の記述をあらためて読んでいったのである。
2 和辻の二つの著書
和辻が「日本の神」の性格についてまとまった形で最初に論じたのは「尊皇思想とその伝統」においてである。この論文は『岩波講座 倫理学』の第一巻に掲載された(昭和15年)。和辻はこれに後に雑誌『思想』に掲載した江戸時代の儒学者・国学者などの尊皇思想をめぐる論文を加えて『尊皇思想とその伝統』の一書にまとめて昭和18年12月に岩波書店から出版した。和辻はこれを「日本倫理思想史 第一巻」としたように、これを初めとし、また軸として「日本倫理思想史」をまとめる構想をもっていた。この構想は日本の敗戦と戦後過程を経た昭和27年の『日本倫理思想史』の刊行として実現する。その上巻はその年の1月に、下巻は同じくその年の12月に岩波書店から刊行された。「日本の神」の性格については前者『尊皇思想とその伝統』では「前篇 尊皇思想の淵源」で、後者『日本倫理思想史』上巻では「第一篇 神話伝説に現われたる倫理思想」で論じられている。しかし書名は異なってもその内容はほとんど同じである。古川哲史は「『尊皇思想とその伝統』の内容はほとんどそのまま『日本倫理思想史』のなかに取り入れられ、活かされている」と前書を解説していっている[5]。
私はここで「日本の神」、その「神」は当然「現人神としての天皇」に連なるものだが、その性格をめぐる和辻の論文の公刊の時歴をやや詳しく見てきた。それはこの「神・天皇」をめぐる和辻の議論がもつ恐るべき性格を知るためでもある。『尊皇思想とその伝統』と『日本倫理思想史』との公刊の時期とは太平洋戦争が戦況の厳しさを見せながら敗戦に向かいつつある時期から、敗戦を経て戦後日本の再建が冷戦的世界状況の中で問い直されようとする時期にかけてである。戦前日本の根底的な転換が図られた敗戦をはさみながら和辻の「日本の神(天皇)」の性格をめぐる論文は変わることなく二つの時期のそれぞれの著書に公表されたということである。
戦前昭和18年に公表された「日本の神(天皇)」の性格をめぐる宗教社会学的な解明とこの「神(天皇)」をめぐる上代日本人の倫理的エートスの理念型的構成とが、戦後昭和27年に変更することなく継承され、あらたな通史的形をもって公表されたということは、時代の危機を経由してもたじろぐことのない和辻の理論的強さをいうのか、あるいは「日本の神(天皇)」がもつ構造的強さをいうのか、いずれにしろ私はそれを恐ろしいといったのである。そうした主観的な慨嘆はともかくとして、和辻による「日本の神」の性格づけをあらためてここで追って見よう。私はその追跡を『日本倫理思想史』上巻[6]によってする。
3「日本の神」の性格
和辻の『日本倫理思想史』の上巻は第一篇「神話伝説に現れたる倫理思想」の第一章において「宗教的権威による国民的統一」を論じている。彼は考古学的資料や「魏志倭人伝」などの中国の文献資料によりながら古代日本の国家的な統一過程を追跡し、記述する。彼は古代国家の統一過程を祭祀的共同体の統一過程として記述していく。私はこれを「宗教社会学的な解明」といった。宗教社会学はデュルケームやジンメルらによって展開されていった20世紀の若い学問であるが、和辻は明らかにこれを受容している。
「シナの文献は、西紀三世紀に宗教的権威による日本国の統一が確立していた、ということを示している。そうしてその統一は西紀二世紀の初めまで溯り得られるものである。また考古学的研究は、さらにそれ以前の二世紀ほどの間に、大きい二つの祭り事の統一が、即ち宗教的権威によるかなり広汎な統一が、成立していたことを立証している。然るに記紀の神話は、丁度この宗教的権威についての物語、即ち神聖な権威による国家統一の物語なのである。」
これが古代日本における「祭り事の統一」を通して国家的統一を読み出し、語り出していく和辻の文章である。これは記紀神話によって神国日本の成立を語る国体論的文章とは全く異質な知的な透明さをもった文章である。この文章をものする知性、同時代の宗教社会学、民族学、そして哲学的解釈学の知識と方法とを共有した知性が、記紀神話を成立しつつある祭祀的共同世界の構造的秘密を解き明かす有力な素材たらしめていくのである。記紀神話は「神聖な権威による国家統一の物語」だとした和辻はこの物語が国家統一事業の前に存在するものではないとするともに、この事業と「全然無関係に架空の物語として作られ得る如きものでもない」とするのである。「ミュケーナイやクレータの発掘がギリシアの古い伝説にいかなる光を投げたかを知るものは、弥生式文化圏の成立や銅鉾銅剣の製作などが、われわれの神話伝説のなかに何らの痕跡をも残していないなどとは考えることが出来ぬのである」と和辻はいう。かくて和辻は「神話物語」に解釈学的視線を注ぎ入れていくのである。この視線によってもっとも鮮やかに読み出されたのは、「祀られると共に自ら祀る神」であるという「日本の神」の性格である。
「われわれは一つの驚くべき事実に衝き当る。神代史において最も活躍している人格的な神々は、後に一定の神社において祀られる神であるに拘わらず、不定の神に対する媒介者、即ち神命の通路、としての性格を持っている。それらは祀られると共にまた自ら祀る神なのである。そうしてかかる性格を全然持たない神々、即ち単に祀られるのみである神々は、多くはただ名のみであって、前者ほどの崇敬を以て語られていない。」[7]
もちろん和辻は日本の神がすべてそのような性格をもつというのではない。彼は記紀神話の神々を三種に分類しながら検討し、その結果として上記の驚くべき結論を導くのである。くりかえしていえば、神代史における有力な神々は、「一定の神社において祀られる神であるに拘わらず、不定の神に対する媒介者、即ち神命の通路、としての性格を持っている。それらは祀られると共にまた自ら祀る神」であるという性格である。この神の性格を神代史の主神である天照大御神にも見出すことができる。見出すことができるというより、主神である天照大御神は代表的にこの性格を担っているというべきだろう。
「天照大御神は三種の神器と共に天孫をこの国土に降臨せしめた神であり、従って天つ日継の現御神にとって皇祖神である。この神は我国における最も大いなる「祀られる神」であったことは云うまでもない。然るに高天原にあっては、この大神は天上の国の主宰者として自ら神を祀っているのであって、他からの祭祀を受けているのではない。」
われわれは高天原神話における須佐之男命の狼藉の段での「天照大御神、忌服屋(いむはたや)に坐して神御衣(かむみそ)織らしめたまひし時に」(『古事記』)という記述から天照大御神もまた高天原で神を祀ることを知る。だがこのことからだれも「日本の神」の驚くべき性格を見出したりはしない。ところが和辻はすでに見たように「祀られる神もまた祀る神である」という「日本の神」の驚くべき性格を見出すのである。私はかつて宣長によって『古事記』を読んでいた時期にこの和辻の犀利な解釈的発見に出会って驚いた。だがその時、私はただ和辻の解釈の冴えに驚いていたにすぎなかった。この犀利な解釈の射程がはるかに現代の天皇論にまで及ぶものであることを私は見ようとはしなかった。われわれはあらためて和辻のこの解釈的発見の意味を問わねばならない。
4 和辻の「神」解釈とその射程
高天原の天照大神も神を祀るが、いかなる神を祀るのかは不明である。和辻はこれをむしろ日本神話における究極神の性格とする。「しかし記紀の叙述から見れば、それは明白に不定の神である」という。これを「不定の神」とした上で和辻は「祀られると共に祀る神」という「日本の神」の構造的性格について重要なことをいう。
「天照大神もまた背後の不定の神を媒介する神として神聖なのであって、自ら究極の神なのではない。即ちここにも神命の通路が表面に出て神自身は後に退いている。」
高天原の主神である天照大御神の祀る神とは至上の神というべき神のはずだが、そのような神の存在の徴は日本神話のどこにもない。和辻はそれを「不定の神」というのである。そして天照大御神の尊貴性はこの不定の至上神を媒介する神、その神命を伝える神であることにあるというのである。彼はこれを「神命の通路」が表面に出てくるというのである。日本の究極神の不定性をいう和辻の犀利にして微妙な解釈の言説を解説的にここで繰り返す愚を止めて彼自身の言葉をもって語らせよう。
「祭祀も祭祀を司る者も、無限に深い神秘の発現し来る通路として、神聖性を帯びてくる。そうしてその神聖性の故に神々として崇められたのである。しかし無限に深い神秘そのものは、決して限定せられることがなかった。これが神話伝説における神の意義に関して最も注目せらるべき点である。究極者は一切の有るところの神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。云いかえれば神々の根源は決して神として有るものにはならないところのもの、即ち神聖なる「無」である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかったということを意味する。・・・絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することに他ならない。それに反して絶対者を無限に流動する神聖性の母胎としてあくまで無限定に留めたところに、原始人の素直な、私のない、天真の大きさがある。」
私の拙い言葉で要約したりする愚を教えるような和辻の「日本の究極神」をめぐる冴えた解釈的文章を写しながら、私は宣長の『直毘霊』の言葉を思い浮かべていた。
「千万御世(ちよろずみよ)の御末の御代まで、天皇命(すめらみこと)はしも、大御神の御子とましまして、天つ神の御心を大御心として、神代も今もへだてなく、神ながら安国と、平けく所知看(しろしめ)しける大御国になもありければ、古への大御世は、道といふ言挙(ことあげ)もさらになかりき。」
この「天つ神の御心を大御心として」という行(くだり)に宣長は注してこういっている。「何わざも、己命(おのれみこと)の御心もてさかしだち賜はずて、ただ神代の古事(ふること)のままに、おこなひたまひ治め賜ひて、疑ひおもほす事しあるをりは、御卜事(みうらこと)もて天つ神の御心を問して物し給ふ。」この宣長の言葉をもって見れば、「天つ神の御心を大御心」とした代々の天皇の統治とはまさに己れを「神命の通路」とした統治であったといえるだろう。宣長はこの「天つ神の御心を大御心」とすることを「己命の御心もてさかしだつ」ことの対極に置いているのである。「神命の通路」であるとは、己れを超えた「全体意志」を神命として聴受することであろう。和辻も記紀物語の「太占(ふとまに)」に触れて、「太占に現われた全体意志をおのれの意志として実現するのは、祭り事を知ろしめす皇祖神或は天皇であった」といっている。いま私が宣長を引きながらいおうとしているのは和辻が記紀神話から解釈し出した「神の性格」とは人皇の時代における「天皇の性格」にほかならないということである。そのことは冒頭に引いた第二章「神話伝説における神の意義」の末尾の一節にはっきりと示されている。これをもう一度ここに引いておきたい。
「それは絶対者をノエーマ的に把捉した意味での神ではなく、ノエーシス的な絶対者がおのれを現わしてくる特殊な通路としての神なのである。従ってそれは祭り事と密接に連関する。祭り事の統一者としての天皇が、超人間的超自然的な能力を全然持たないにかかわらず、現神として理解せられていた所以は、そこにあるであろう。天皇の権威は、日本の民族的統一が祭祀的団体という形で成立したときに既に承認せられているのであって、政治的統一の形成よりも遙かに古いのである。」
私は祭祀する天皇が国民的畏敬の中心であるゆえんを和辻の「日本の神」解釈によって答えながら、和辻の「神」をめぐる私の論はすでに答えの範囲をこえてしまっている。しかし私の論がこえるというよりは、記紀神話によって「日本の神」あるいは日本の最高神「天照大御神」を解釈的に再構成する和辻の論がはるかに20世紀日本の「天皇」論に及ぶ射程をもっていたというべきだろう。上に引いた和辻の「現神」としての天皇をいい、民族的統一にかかわって「天皇の権威」をいう言葉はすでに帝国日本の神聖天皇の意味を、さらには戦後日本の象徴天皇の意味をも解き明かすものでもあるだろう。和辻の記紀神話によって「日本の神(天皇)」の性格を解明する論文が太平洋戦争とその敗戦をはさんで二つの著述として、すなわち『尊皇思想とその伝統』(昭和18年刊)として、さらに『日本倫理思想史』上巻(昭和27年刊)として刊行されたことは和辻の「記紀神話」の解釈学的作業がもったはるかな歴史的射程を明らかにしている。
私は前にこの戦争と敗戦をはさんだ同内容の二つの著述の刊行をめぐって「恐ろしさ」をいった。恐ろしいのは和辻の犀利な神話解釈であるとともに、その解釈が戦前の神聖天皇をも戦後の象徴天皇をも支えてしまっていることである。一つの理論が戦争と敗戦をはさんだ二つの時代の天皇を支えたとすればこれほど恐ろしいことはないではないか。すでに私にとっての最後の問題が提示されている。
[1]所功「代替わり儀式を締めくくる「大嘗祭」って、どんな祭儀?」サイト・カドブンhttps://kadobun.jp
[2]私の「明治維新の近代」という日本近代の読み直し作業はこの津田の違和感に始まるものである、本論の序章「「王政復古」の維新」参照。
[3]『近代神社神道史』(増補改訂版、神社新報社、1986)は天皇制国家を祭政一致的国家として規定する所以を天皇の大権に基づけている。「日本国の統治(国政)と日本国の最高の祭祀とは、いずれも天皇の大権事項である。祭と政とがともに天皇の大権に属するということには、もちろん日本の政治も祭祀も同一の基礎の上に立つとの精神的意義がある。「祭政一致」とはそれをさしていうものである。」「祭政一致的国家」をめぐる問題については私の『国家と祭祀』(青土社、2004)を参照されたい。
[4]一つは昨年11月12日に「天皇の国民的再認知についての疑問」と題して大阪の講演会(天皇の代替わりを問う実行委員会主催)でなされたものであり、二つは12月1日に「祈る天皇を疑うー「学徒出陣」76年後の天皇を考える」と題して東京での講演会(日本戦没記念会主催「2019年12・1不戦の集い」)でなされたものである。
[5]「尊皇思想とその伝統」「日本の臣道」「国民統合の象徴」を収める『和辻哲郎全集』第14巻「解説」1962、岩波書店。
[6]『日本倫理思想史』上巻、1952、岩波書店。引用に当たっては現行の漢字・かな遣いに改めた。
[7]『日本倫理思想史』上巻、第一篇・第二章「神話伝説における神の意義」。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2020.01.19より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/81994556.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1100:200120〕