「福島原発周辺の状況と救援活動報告―ネット環境の設定」など

福島原発周辺の状況と救援活動報告―ネット環境の設定

連帯共同ニュース第114号 2011年5月11日  

■ 4月30日、10時頃に新宿を出発、福島に向う。メンバーは長船さんとフリーター労組の北島さん、それに初参加の私、雪野の3名である。

▼放射能の測定状況
 途中、福島県に入る頃から放射能検知器が警報を鳴らし始める。福島市内に入ったところから100~150cpm程度になり、これは概算で0.8~1.2マイクロシーベルト(μSv)に相当する。ガイガーカウンタは粒子の性質を持つ放射線を捕えるとそのつど「ポッ」とカウントする(もって行った機械は音が出さない仕様だったが)。従って、このカウント数はほとんど鳴り続けの状態である。往路で最大となったのは、国道115号で南相馬市に向う途中の霊山パーキングの屋外で、500cpmを越えた。地理的には福島第一原発から北西、飯館村の先に位置している。ここでも、ドアと窓で密閉された休憩所の内部では150cpm程度だった。なお、前回の国道114号線を経由した際には一時3000cpm(24μSv)を示したということだ。1年間いたら200mSvの被爆となる。その後、南相馬市では多くて150cpm程度で、平均的にはむしろ福島市より低い数値であった。3月12日の水素爆発の前後の風向きが明暗を分けたことになる。それにしても、結果的には放射能汚染分布をほぼ正確に予測していたSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の数値を公表していなかった点で政府の罪は大きい。そのときのために100億円余りの国費を投じて開発したシステムの報じた貴重な警告が一番大切な時期に公表されなかったのである。

▼南相馬市で
 登り道はいつしか下り始め、相馬市内に入る。南に下り、目的地の南相馬市に至ってしばらくすると、田畑のあちこちに漁船が残された光景が出現する。喫水が1mを越えている船もあるので、少なくともこのあたりでも1m以上の津波が到来していたことになる。海岸線は数キロ先のところである。なお、福島市内からこのあたりまで、地震で倒壊した家はほとんど見当たらず、ところどころに屋根(棟の部分が多かった)がこわれてブルーシートで覆った民家が見られた。屋根屋さんの工事の予約は2年を越えている由。夕闇が迫る頃、ようやく目的地の支援物資集積所に到着した。PALシステムからいただいた新鮮な野菜と果物、さらに軍手とタオルを1~2トン、荷卸しする。「南相馬市災害ボランティア がんばろう! みなみそうま」と大書されたキャップをそれぞれ頂いた。このキャップを被っていると食事の際など「ご苦労様です」「ありがとうございます」と店の人や客から声をかけられる。この日は常磐線原ノ町駅近くのビジネスホテルに宿泊したが、すぐ近くのコンビニには「営業を再開しました」という横断幕が張られていた。長船さんの話では前回より街の中がずっと明るくなっているという。なお、常磐線は原ノ町駅の南北の区域(いわき-岩沼間)の沿海の部分で壊滅的な被害を受けており、一部は福島第一原発の避難区域に属していて復旧の目処はまったく立っていない。
■  二日目の5月1日は、沿海部の萱浜地区の被災状況を見て回った。海岸線と平行に走っている小高い町道から坂を下ると、一面の津波被災地である。水田地帯の散村の民家はほとんど全滅した。すでに瓦礫はところどころに集められ、青か白の旗が立っている。土台だけ残った家がある。赤いトラクタがそこここに流されている。ぐしゃぐしゃにつぶれて倒れた送電鉄塔がある。その先に誰が立てたか鯉のぼりのポールが見える。「負けないぞ!」という不屈の闘志を感じる。
 海岸線からおそらく100mは内陸の部分に、防波堤のコンクリートが数片(といっても1.5m×5~8mはあろうかという大きさ)打ち寄せられている。海岸には、一抱えるもある松の木の幹が打ち寄せられている。枝はまったく残っておらず、根元はすっぱりと斜めに剪断されている。黒い樹皮はわずかに残るのみ。松原の大樹が、一瞬のうちに津波に襲われ、翻弄された後に流されてきたのだろう。かつて海水浴場としてにぎわった砂浜は、10m幅も残っていない。残された防波堤は、海の中で波に洗われている。津波は引き際に海岸の大量の砂を流し去った。残った海水が流出する際に侵食された浜には、2m近くえぐられた流路が残され、大量のプラスチックゴミが漂着している。2カ月近く前に津波がこの地を襲ったときの様子がまざまざと目に浮かぶ。
こうした災害を予測し、警告していた研究者もいたが、これらの警告は無視された。萱浜地区を見た後、避難所のある磐梯に向う。途中、福島市で集会に立ち寄った。

▼子どもたちを放射能から守るための集会
12時過ぎに会場に着いた。準備会に予想以上に参加が多く、急遽会場が変更されたという。会場準備の人たちを手伝い、ビラなどを置いてもらう。200人以上が参加し、地元TVも取材にきている。開会、主催者挨拶の後、「県外からの参加者」の分科会に参加。遠く関西、中国地方からも参加があり、総数は約30人。お母さん方に、放射能について強い危機感があるのを肌で感じる。次の予定があるので途中で退場し、最後の目的地の磐梯町に向う。

▼磐梯リゾートイン
 5時過ぎに、片隅にまだ雪が残るスキー場のリゾートホテルに到着。ここには6町村から約160人が避難している。われわれも一泊1000円で宿泊させてもらうことになっていたが、その後「無償」に変更したとのこと。少し押し問答をしたが、ありがたく好意を受け入れる。個室に家族ごとにいられるので、その点では条件は良い。しかし、翌5月2日、正午ころまで滞在の間にも、避難している人たちの不安とさまざまな課題が見えてきた。ここでの目的は共用PCの設置である。相馬市のボランティアキャップを被ってPCとチラシを脇において食事していると、浪江町から避難しているT.R.さん夫妻から話しかけられた。ノートPCを食堂に持ち込んでいる。インターネットプロバイダの使用料が引き落としのままになっているのではないかと心配だ、という。さっそく、TさんのPCの保存メールでプロバイダを確認し、電話をかけて利用停止の連絡をする。幸い、4月に入ってから利用停止の申し出がされていることが確認できた。息子さんが連絡したらしい。これをきっかけに、Tさんからいろいろな話を聞くことができた。米作農家のTさんは、13日に二本松の避難所に入った後、すぐ別の避難所に移り、ここには20日位して移ってきた。父親が避難して3日後に脳梗塞を発症して入院、母親は仙台在住の親族が引き取った。いちばん気がかりなのは、1000万円近く残っている農機具のローンの返済だという。Tさんは浪江町で稲作が再開できるかどうか懐疑的だ。このようにまだ利用可能な農業機械については、一旦政府が買い取って除洗後にレンタル利用等に供し、稲作が再開できたときにTさんに機械と残債を戻すスキームが可能だろう。しかし、60歳を越えたTさんは「そのときに農業を続ける気力が残っているか心配だ」という。その後も、Tさんとはしばしば顔をあわせ、挨拶をして言葉を交わす間柄になった。Tさんはかなり現実的な見通しを持っていたが、長船さんが話した人には、「半年くらいで戻れる」と楽観的過ぎる人もいた。避難所入り口の喫煙場所は、滞在者と話をする絶好のスポットで、北島さんは原発労働者を含む多くの人と話ができた。その労働者は「呼び出しがあったが行かなかった」ということだ。所内の生活では、食事の配膳、食器洗い、掃除などで当番制が行われている。絵本やおもちゃ、お絵かきの道具などのある子どもの遊び場では、お母さん方やボランティアがこどもたちと遊んでいる。しかし、地区の自治会は6地区すべてでは組織されていない。行政、NPO、弁護士有志などによる相談会のスケジュールも毎日のように掲示されている。それでも、先の見通しのつかない不安は覆いがたく避難所を漂っている。長船さんは階段に座り込み、さめざめと泣いている女性に出会ったが、かける言葉が見当たらなかったという。共用PCは3階食堂の入り口あたりのカウンターに無事設置した。長船さんによれば、今回初めて実際に被災者と会って話ができ、もっとも充実した支援活動ができたという。ほんの短い間の支援活動であったが、ささやかながら被災者の力になることができ、いろいろと考えさせられた。今後も機会があれば参加したい。             (文責 雪野建作)

日々高まる人々の声は中電の浜岡全原発停止の力になった

■  菅首相は5月6日(金)に中部電力に対して浜岡全原発停止を要請した。これに対して中部電力は5月9日(月)にこの要請を受け入れ、近日中に浜岡原発の4号機、5号機を停止する。(現在稼働中の浜岡原発は4号機と5号機)。この決定は防潮堤設置による安全対策の完備までの2年の間の停止であり廃炉に向かってのものではない。この点や今回の菅首相の要請が政治的パフォーマンス色の強いことから批判的向きも少なくはない。しかし、僕らはこの決定がどのような経緯や政治的意図でなされたにせよ、浜岡原発問題解決の第一歩として評価する。確かに僕らは浜岡全原発廃炉を、それも火急にやるべきであると主張する。何故なら浜岡原発は東海地震の想定震源地の上に築かれている危険なものであり、津波対策の防潮堤では安全対策が不可能と見ているからだ。さらに原発は廃止すべきである、という認識もある。しかし、それにもかかわらずまず稼働が停止されたことを評価するのは浜岡原発危険解除への第一歩とみるからだ。この決定すら国民の原発に対する批判と廃止の声が高まったからであり、ここから前に進め得るかどうかは国民の意思とその表示の持続的展開による。第一歩は第一歩に過ぎない。だが第一歩がなければ先に進めない。浜岡原発廃炉の道は長い道のりだが、石は置かれた。(文責 三上治)

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新緑の季節の中にあった避難所や一変する山村の光景などから

連帯共同ニュース第115号  2011年5月12日

■  「おゃ、桜じゃないか」、というまでもなく車外には桜が咲き誇っていた。右手に磐梯山を猪苗代湖を望む麓に浪江町など原発周辺の六町村の人々《約300人》の避難所を訪ねる道でのことだ。東日本大震災緊急救援市民会議の第七次救援隊が立ち寄り一泊をさせていただいた場所は3月13日の第一原発の爆発によって緊急に避難してきた人々がいる施設だった。何の情報もなく、危ないといことで避難してきた人々はもう少し正確な情報がもたらされていたら、家のことなど整理してきたのにと語っていたのが印象的だった。政府や東電の対応の稚拙さは多く指摘されているが、原発周辺の人々は不安の中でやみくもに逃げる事を強いられただけであった。突然の原発爆発で日常生活を一変することを余儀なくされた不安や怒りは想像を絶するものがあるが、特に酪農などの生活を営んでいた人々の生活は大変だったようだ。牛や豚など飼っていた人々は断腸の思いでそれらを捨ててきたのであろうが、捨てられた牛や豚も生きることに必死であり、「豚は悪さをして困った」とは様子を見にこっそり帰った人の談だった。正確な情報が伝わらない不安の解消を願わざるをえないが、原発災害が解消されない限りは根本的な解決はない。人々の日常には場所に結び付いた歴史や記憶がありそれが破壊されることの酷さを実感した。

■  翌日には救援隊は二本松の救援物質センターにより、南相馬をめざした。福島市から南相馬に入るには山村を越えて行く。今頃は山菜取りのシーズンなのだろうと思う。田植えなども始まる時期で楽しく生活に彩りのある季節である。だが、この村々の風景には異変がある。半ば放置された田畑はどこか生彩がないし、萌えいずる季節とはいいがたいのだ。放射線測定機は鳴りぱなしであり、霊山付近では特に高かった。放射線の濃度は地域により差があるが山間部では高いようで生活放棄を余儀なくされている。何千年と連綿と続けられてきた山村の生活放棄を強いる放射線と何か,核とは何かなどいろいろの問いかけが起こる。近代と科学技術のもたらしたこの世界は存在そのものが問われているのだ。これらは人間的力としての技術で制御可能であるという幻想を破り、人間の存在そのものと敵対するもとであることを垣間みせているのではないか。人間が存在し生活すること自体と相入れない存在ではないのか。技術に克服の可能性を否定し、存在そのものを否定する選択を選ぶべきものではないか。こうした自問の中で南相馬に隊は着いた。救援活動は大震災から2カ月を経て一段階を終え、次の段階に入った。(文責 三上治)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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