私が永らく会員となっている「ポトナム短歌会」ですが、今年の4月に『ポトナム』創刊100周年記念号を刊行したことは、すでにこのブログでもお伝えしました。上記表題の小文を『うた新聞』(いりの舎)9月号に寄稿しました。『ポトナム』100年のうち60年をともにしながら、その歴史や全貌を捉え切れていませんので、”私説”とした次第です。
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私説『ポトナム』百年史
・ポトナムの直ぐ立つ枝はひそかなりひと時明き夕べの丘に
一九二二年四月『ポトナム』創刊号の表紙に掲げられた小泉苳三の一首である。当時の日本の植民地、京城(現ソウル)の高等女学校教諭時代の小泉が、現地の百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと創刊し、誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした。二三年には、東京の阿部静枝も参加した。
二〇二二年四月、創刊百年を迎え、大部な記念号を刊行した。年表や五〇〇冊余の叢書一覧にも歴史の重みを実感できるのだが、『ポトナム』が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。
今回の記念号にも再録された「短歌の方向―現実的新抒情主義の提唱」が発表されたのは、一九三三年一月号だった。それに至る経緯をたどっておきたい。二三年は関東大震災と不況が重なり、二五年は普通選挙法と抱き合わせの形で治安維持法が公布された。反体制運動の弾圧はきびしさを増したが、社内には新津亨・松下英麿らによる「社会科学研究会」が誕生し、二六年には『ポトナム』に入会した坪野哲久、翌年入会の岡部文夫は、ともに二八年一一月結成の「無産者歌人聯盟」(『短歌戦線』一二月創刊)に参加し、『ポトナム』を去り、坪野の作品は一変する。
・あぶれた仲間が今日も うづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら(『プロレタリア短歌集』一九二九年五月)
苳三は、『ポトナム』二八年一二月号で、坪野へ「広い前途を祝福する」と理解を示していたが、社内に根付いたプロレタリア短歌について、三一年五月に「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱」し、短歌と認めることはできず「誌上への発表も中止する」と明言した。先の「現実的新抒情主義」について、多くの同人たちが解釈を試みているが、「提唱」の結語では「現実からの逃避の態度を拒否し、生々しい感覚をもつて現実感、をまさしくかの短歌形式によつて表現することこそ我々の新しい目標ではないか」、その実証は、「理論的努力と実践的短歌創作」にあるとした。総論的には理解できても実践となると難しいが、この提言によって『ポトナム』は困難の一つを乗り切った感もあった。
以降、戦争の激化に伴い、短歌も歌人も「挙国一致」の時代に入り、「聖戦」完遂のための作歌が叫ばれた。四四年一月の「大東亜戦争完遂を祈る」と題して、樺太から南方に至る百人近い同人たちの名が並ぶ誌面は痛々しくもある。その年『ポトナム』は国策によって『アララギ』と合併し、三月号を最後に休刊となった。その直後、苳三と有志は「くさふぢ短歌会」を立ち上げ、敗戦後の『くさふぢ』創刊につなげ、さらに五一年一月の『ポトナム』復刊への道を開いた。
しかし、苳三は、四七年六月、勤務先の立命館大学内の教職不適格審査委員会によって、『(従軍歌集)山西前線』(一九四〇年五月)が「侵略主義宣伝に寄与」したことを理由に教授職を免じられたのである。GHQによる公職追放の一環であった。歌集を理由に公職を追われた歌人は他に例を見ない。
・歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
(一九五一年作。『くさふぢ以後』収録)
追放に至った経緯はすでに、教え子の白川静、和田周三、安森敏隆らが検証し、敗戦後の大学民主化を進める過程での人事抗争の犠牲であったともされている。大岡信は「折々のうた」でこの歌を取り上げ、審査にあたった学内の教授たちを「歌を読めない烏合の衆の血祭りにあげられた」と糾弾する(『朝日新聞』二〇〇七年二月二三日)。歌人の戦争責任を問うならば、まず、多くの指導的歌人、短歌メディア自身の主体的な反省、自浄がなされるべきだった。
苳三は、この間も研究を続け、追放解除後は、関西学院大学で教鞭をとった。戦時下の四一年から三年かけて完成した『明治大正短歌資料大成』三巻、早くよりまとめにかかっていた『近代短歌史(明治篇)』(五五年六月)など多くの著作は近代短歌史研究の基礎をなすものだった。五六年一一月、苳三の急逝は『ポトナム』には打撃であったが、五七年からは主宰制を委員制に変更、現在は中西健治代表、編集人中野昭子、発行人清水怜一と六人の編集委員で運営されている。先の教え子たちと併せて小島清、国崎望久太郎、上田博、中西代表らにいたるまで国文学研究の伝統は、いまも受け継がれている。
古い結社は、会員の高齢化と減少に歯止めがかからない局面に立っている。結社が新聞歌壇の投稿者やカルチャー短歌講座の受講生などの受け皿であった時代もあったが、結社内の年功序列や添削・選歌・編集・歌会などをめぐって、より拘束の少ない同人誌という選択も定着してきた。さらにインターネットの普及により発信や研鑽の場が飛躍的に広がり、多様化している。短歌総合誌は繰り返し結社の特集を組み、各結社の現況を伝え、結社の功罪を論じはするが、それも営業政策の一環のような気もする。すでに四半世紀前、一九九六年三月号で『短歌往来』は「五〇年後、結社はどうなっているか」とのアンケートを実施、一五人が回答、「短歌が亡びない限り」「世界が滅びるまで」「形を変えて」「相変わらず」存在するだろう、とするものが圧倒的に多かった。私は、「現在のような拘束力の強いとされる結社は近い将来なくなり、大学のサークルや同好会のような、出入りの自由なグループ活動が主流となり」その消長も目まぐるしく、活動も「文学的というより趣味的で遊びの要素が強くなる」と答えていたが、残念ながら二五年後を、見届けることはできない。
私にとっての『ポトナム』は、一九六〇年入会以来、一会員として、歌を詠み続け、幾多の論稿を発表できる場所であった。婦人運動の活動家でもあり、評論家でもあった阿部静枝はじめ個性的な歌人たちから、多くを学んだことも忘れ難い。(『うた新聞』2022年9月)
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なお、拙稿の発表後、9月18日、大甘さん(@kajinOoAMA)のつぎのようなツイートがなされているのに気づきました。大事なご指摘をありがとうございます。創刊にかかわった先達から、「白楊」と聞いておりましたまま、調べもしませんでした。
ポトナム短歌会の「ポトナム」って何だろうって思っていた。『うた新聞』9月号、内野光子氏の寄稿に、1922年、植民地朝鮮の京城にて創刊、”誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした”とあり、謎は解けた。久々に日韓・韓日両辞書を引っ張り出し、軽い気持ちで”確認”を試みたが… pic.twitter.com/eVWdkhMakj
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当ブログ過去の関連記事
1922ー2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html
(2022年4月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html
(2022年4月9日)
忘れてはいけない、覚えているうちに(3)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-448784.html
(2022年8月10日)
忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-f5f72b.html
(2022年8月12日)
初出:「内野光子のブログ」2022.10.3より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/10/post-7afd8c.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12429:221004〕