ヘーゲルの「精神の現象学」を「鬼神の現象学」として読んでみようという私の文章に小倉百合子さんからこういうコメントが寄せられた。
「「ものの真相は力であり力は生命でありさらには自己である・・・認識される相手はものではなく生命あるものであり他の自己意識である」・・・私自身がこの意味するところをどのくらい理解できているか自信はないのですが無性に気になる言葉です。魂の深いところで感ずるものがあります。ぜひ子安先生に講義していただきたいと思います。」
恐らく多くの方々が私のヘーゲルの読み方についての更なるコメントを求められているはずであり、小倉さんがヘーゲルの言葉に感じ取られていることは、私がヘーゲルの文章から読み取ろうとすることと同質のものであると思うので、小倉さんへのお答えの文章をここに公開の形で書かせて頂くことにした。
ヘーゲルの『精神現象学』を日本の哲学研究者のように理解しようとしたら、結局、ヘーゲルと心中することになってしまうでしょう。金子武蔵先生は私が尊敬する唯一の大学教授ですが、その先生が生涯をかけた研究の精華(成果)としてわれわれに遺してくれたものは『精神現象学』の翻訳であり、講義録でした。だが精魂を傾けられたヘーゲル理解への道を誰れもが辿りうるものではありません。あえてその道を辿ろうとする後進のためにこそ先生は翻訳をされ、講義をされたのでしょうが。しかしその翻訳によってもヘーゲルの哲学世界は容易に辿りうるものでないことは、翻訳ヘーゲルの片端でも読んだ経験のあるものは知っているはずです。私自身も学生時代以来、失敗したヘーゲル体験を何度となく繰り返してきました。
私は大分前、阪大の在職時代から朱子の「鬼神論」に関心をもち、学生とともに読んで来ました。最近、市民講座「論語塾」でこれをあらためて読み始め、朱子の「鬼神論」とは「鬼神の現象学」ではないかと思うようになりました。ヘーゲルの『精神現象学』とは「精神」によって人間の内部世界も外部世界もとらえ切ったもの、あるいは読み切ったものです。朱子の「鬼神論」もまた「鬼神」をもって人間の生死を含む内外世界をとらえ切ったもの、あるいは読み切ったものです。しかも「鬼神」を朱子は「神霊」概念を背後にもった「陰陽二気の精気」と定義します。「鬼神=精気」とは働きであるとともに実体です。それは「精神」に外なりません。「鬼神」とは「精神」なのです。
私は院生時代に金子先生から「精神」の漢語的由来を訊ねられました。その時には私はその問いに答えることはできませんでした。だがその質問をずうっと忘れずに持ち続けてきました。50年後の私は「精神とは鬼神です」と答えることができます。たしかにドイツ語の“Geist”もまた辞書によれば、「精神」であり、「霊」であり、「気力」であり、「幽霊」でもあるのです。
私は「精神」とは「鬼神」であることを知ることで『精神現象学』を読めるようになったと思います。
以上が小倉さんの問いにいまできる答えです。小倉さんが「物の真相は力であり、力はさらに生命であり、さらには自己でもある」という言葉に引きつけられるといわれたことには、私も同感いたします。そのゆえんを「精神」概念を以上のように理解することによって見出しえたように思っているのです。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.12.26より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/78567057.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1012:181227〕