「継続は力なり」と「努力は裏切らない」

著者: 藤澤豊 : (ふじさわゆたか):ビジネス傭兵
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多くは仕事の必要に迫られて(ときには自分の思いから)、継続は力なりとやってきたが、力なりを実感したのは数えるほどしかない。いくらやっても成果の兆しがみえないと、こんなこと続けていていのかと不安になる。不安がなんとか保っていた熱意を越えると、一気に気持ちが萎えてしまう。消えてしまった熱意が苦い記憶としていつまでも尾を引いて、後日新しいことを始めなければというときに、どうせできずに途中で放りだすことになるのだから止めておけと呟きだす。そんな負の気持ちを振り払って、上手くいかないであろうチャレンジに向けて走り出すようなことを繰り返してきた。さしたる才もなければこれといった能のないものには、ささやかな夢を追いかけて日々ちまちまと続けることぐらいしかない。これが継続は力なりということばが生き続けてきた背景にあるように思えてならない。

還暦もとうにすぎて体力が落ちていたのに気づかずにちょっと頑張って草むしりをしたら腰を痛めてしまった。昔のように体がうごかないのに歯がゆい思いをしていたが、こんなことになるなんて想像もしていなかった。これが年をとるということなのだろうと、あたらためて痛感した。腰を痛めたことがある人なら想像できるだろうが、座る時より立ち上がるときがきつい。腰に手を当てて、出来るだけ腰に負担をかけないようにしていた。これ以上悪化すると出歩くのも億劫になりそうで、どうしたものかと考えこんだ。
整体にでも行けばと思いはしたが、怪しいところも多そうで気が進まない。たいした効果もない(かもしれない)のにそれなりの金はかかる。そんなところに金を使うのなら、なにか上手いもので食ったほうがいいという貧乏根性が顔をだす。

そんなことを思っていたある朝、ここまで悪化したかとショックだった。ベッドからまっすぐ起きられずに転がるようにして起きだしていたが、それすら辛くなってきた。これ以上悪化すると日常生活への支障が大きくなりすぎる。まずは血行をよくしたらどうだろうと電気座布団を椅子の背もたれにかけて腰を暖めることにした。そしてたまに行くスーパーで起毛の枕カバーを見つけて買ってきた。切り開いてベッドの腰にあたるところに敷いてみた。悪くはないというだけで、想像した通り実感できる効果はなかった。どうしたものかとWebであれこれみていって、そういうことかも思いだした。年とともに体力が落ちるのはしかたないが、そこに運動不足が加わって体幹を支える筋肉が落ちてしまったからじゃないのか?千代の富士が脱臼や怪我を克服するのに筋肉を鍛えたという話もどこかで聞いた記憶がある。さりとてフィットネスやジムに通うのもめんどくさい。まずは自室できることからやってみようと始めて驚いた。背筋を鍛えようとうつ伏せになったが胸があがらない。腕立て伏せは何年か前まで二十回や三十回は楽にできたはずなのに十回かそこらで息が上ってしまった。

しょうがない、出来るところまでと毎朝の日課にした。身の回りのもので代用して出来るだけ金は使わないと思っていたが、エキスパンダーだけは買ってきた。水を入れたペットボトルをダンベルの代わりにして……。
胸は五十回以上あげても苦にならなくなった。腕立て伏せもスクワットも……、半年で腰の痛みもこの程度ならしょうがないというレベルになったし、人並みの速さで歩けるようになった。夕方シャワーを浴びる前にもと柔軟体操も始めた。子供の頃から体が硬かった。肩幅で立って上半身を曲げても、指先は床から三十センチほどまでしか下がらない。だめもとで続けていたら先月ついに指先がつくようになって、今月中には手の平を床にペタッとつけるようになりそうな気がする。

古希もとうに過ぎて、あらためて「継続は力なり」をささやかながらも体験した。でもこれは非常に希なことで、たかが半年ほどで、それなりにしても成果を実感できたことなど一度もなかった。英語にいたっては半世紀以上使ってきたが、自信など微塵もない。三十過ぎて数年間身を入れて勉強したが、当初たいした成果がでそうな感じはなかった。仕事で使わなければならない立場になって二十年もやってれば、水垢が溜まるように力がついてくる。ただ水垢が溜まるにはものすごい時間がかかるから、日常生活の感覚では力がついて行くのを実感できない。三年、五年、そして十年とたって、昔とは違って来たんだなーと感じることがあるだけで、半年や一年、ましてや数ヶ月で明らかな違いを実感できることはめったにない。

「継続は力なり」は間違いじゃないが、正しいわけでもない。普通の人がいくら頑張っても日本を代表する体操選手やプロ野球選手になれやしないし、碁や将棋の名人になれるわけでもない。自分の才能や能力の限界をちょっと超えたあたりまでのことなら、努力次第で何とかなるかもしれないということで、どうにもしようのないことを継続するのは時間と労力の無駄遣い以外のなにものでもない。成果のあがりようのないことに固執すれば他のことができなくなる。機会損失はなにもビジネスの世界のことではない。普通の日常生活のあれもこれもが機会損失の結果だし、今こんなものを書いているのも機会損失の一例だろう。
英語なんかやらないですんでいたら、もっと有意義なことに時間をかけられたのではという思いがある。そう思う一方で、英語をやってきたことによって、多くのことと知り得たし、職の自由度が大きくなったのも事実で、無駄だったとは思えない。そもそももっと有意義なことをと思っても、なにが有意義なのかわからない。興じる才はないし、音楽やスポーツのように持って生まれた才なくしては飯の種にまでにはならない。ちまちまやってればそれなりに成果がついてくる英語しか選択肢はなかったんじゃないかと思っている。

ましてや社会や組織を相手にしてのこととなれば、個人でできることには限りがある。たいしたことをしようとしてきたわけじゃないが、限りがあると一歩引いた道を選ばざるをえなかったんだなと今になって思う。なにをしようとするのか、するのを避けるのかは人それぞれの思いもあれば勢いもある。でも、実体験から言わせていただければ「継続は力なり」が的を射た言葉だとは思えない。少なくとも機会損失まで勘定にいれればなおさらそう思わざるを得ない。

「継続は力なり」と似たようなものに「努力は裏切らない」というのがある。言っていることは似ているが両者の間には本質に関わる違いがある。継続とは同じことを同じように繰り返すことを意味している。努力は状況に応じて工夫することも含意している。工夫をすればやることもやり方も違ってくるから、継続の範疇を越えてしまう。
継続とは決められたルーチンを繰り返すことに他ならない。人様々でそれが好いという人もいるだろうが、性に合わない。退屈なまでならまだしも、気がつかないうちに手段が目的になってしまっていることさえある。「努力は裏切らない」が、「継続は力なり」はそういうこともあるというまでのことだと思っている。

「報われない努力ほど美しいものはない」というのを聞いたことがある。魅かれる言葉だが、それですむような立場にいられる人は希だろう。いられる人がうらやましいとは思うが、そうなれるとも、なりたいとも思わない。

ここまで書いてきて、はたと考えだした。いろいろ工夫をしていけばと思ったが、いくら工夫をしたところで、目的としていることが社会の要請に沿ったものでなければ、よくて組織や個人の自己満足にしなからない。
やることが時代の流れからずれていたら、やり方をいくら工夫しても、そこから次の時代を切り開くなにかが生れることはない。日立精機で経験したQCサークル活動はその最たるものだった。これについては、ちょっと長くなるので別稿にする。

2024/8/4 初稿
2024/9/15 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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