「自分の、本を見る目の無さにあきれる」──周回遅れの読書報告(その83)

 読み返した本の末尾に、その本を初めて読んだ時の「読後感」のようなものが書いてあることがある。トニー・クリフが書いたこの本『ローザ・ルクセンブルク』もそうだった。30年前(1988年)の秋の日付と共に次のようなことが書いてあった。

 再生産表式(蓄積論)に関する部分(ラーヤ・ドゥナエフスカヤ論文を含む)はやはりどうにも理解できない。それ以外の部分はローザの論文の切り取りであり、新たな刺激はない。

「それ以外の部分」以下の叙述は取り消したい気分である。今回、30年ぶりに繰り返して読んでみて、そう思った。一体私は何を読んでいたんだろう、と言わざるを得ない。トニー・クリフの叙述は、項目ごと(「社会改良か社会革命か」、「大衆ストライキと革命」、「自然発生性」、「ボルシェヴィキ批判」、「資本蓄積論」等)にコンパクトに整理されており、実に分かり易かった。少し前に、ネットル『ローザ・ルクセンブルク』(上・下)を読んだが、ネットルの二段組で1100頁を超える浩瀚な伝記よりも、クリフの本文180頁余りのこの本のほうが分かり易いほどである(例外は、民族問題。このねじれた問題に関してはネットルの執拗な追及のほうがやはり分かり易い)。
 それなのに、「ローザの論文の切り取りであり、新たな刺激はない」とは、よくも言えたものである。一体何を考えていたのであろうか。「人を見る目がない」ということでは、人後に落ちない自負があるし、それを自覚してきたつもりであるが、「本を読む目もなかった」のである。
 多分、30年前もローザ・ルクセンブルクの資本蓄積論のことを知りたくて、この本を手にしたんだと思う。その資本蓄積論がこの本(そして、付録としてつけられているラーヤ・ドゥナエフスカヤの論文)ではまるで理解できなかった。それで「ローザの論文の切り取りであり、新たな刺激はない」とやけくそに書いたのであろうか。そうだとしたら、一層問題である。
 ドゥナエフスカヤは、マルクスが資本主義はその有機的構成自体が自らの死を用意すると言っているのに、ローザ・ルクセンブルクは、資本主義の死は、その外部、すなわち、非資本主義的社会からやってくると言っていると、批判する。この批判は、今は実に良く分かる(ただ、この発言と、トニー・クリフが本文中で言っていること、つまり、「(ローザ・ルクセンブルクの)方法は、労働階級が、客観的発展にあわせて、その潜在的能力を可能な限りの最良なやり方で、発揮するのを助けるために、生きた社会の発展の方向を掲示することにあった」(163頁)ということが、どうにも結びつかない。したがって、蓄積論に関するローザ・ルクセンブルクの主張を「完全に理解した」とは、とても言えない)。
 30年前に自分は一体何を読んだのであろうと思うと、今更ながらに、「自分は本を見る目もない」と自覚させられる。私が後、30年生きている可能性は皆無に近いが、30年かそれ以前に読んだ本を、あと何年間かのうちで読み直す可能性は、ないわけではない。そのときまた本を見る目の無さを自覚させられることは余り気持ちのいいものではない。作業部屋には、読み終えたら処分を考えようと持っている本がまだかなりある。その中には、読み終えた本もあるし、とんでもないメモが残っている場合もある。そのメモがしようもないメモだったら、無視すればいいようなものだが、それも余り気持ちのいいものではない。
            トニー・クリフ『ローザ・ルクセンブルク』現代思潮社、1968年

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