本日(1月20日)午後、上智大学文学部新聞学科の田島泰彦教授の最終講義。同大学12号館102教室は、学内外の受講者で満席だった。
田島教授は、1952年埼玉県秩父市生まれ。上智大学法学部卒業。早稲田大学大学院法学研究科公法学専攻博士後期課程単位取得満期退学(指導教授:浦田賢治)。神奈川大学を経て、1999年4月より現職とのこと。専攻は、メディア法。表現の自由や報道の自由、メディアの自由と市民の人権などを研究され、活発に社会に向けての発言をしてこられた。個人的には、DHCスラップ訴訟でご支援いただいている。
本日の講義は、「表現の自由とメディアはどこに向かうのか」。表現の自由に対する権力的規制に着目した論述となった。以下、その概要。
柱建ては次の3項目。
1 表現の自由規制は、今どこまで来ているのか。
2 その規制は、今後どこまで及んでいくのか。
3 表現の自由規制の中にあって、メディアの役割と課題は何か。
そして、「おわりに 市民はどうするか」でまとめられている。
1 表現の自由規制は、今どこまで来ているのか。
☆今の規制は2012年総選挙での第2次安倍政権誕生以降に急展開している。
しかし、それ以前民主党政権時代に問題がなかったわけではない。たとえば、「メディア規制3法」の提案が先行して物議を醸しているる。「個人情報保護法(成立)」「人権擁護法案(撤回)」「青少年有害社会環境対策規制法案(断念)」など、市民の自由や人権よりも、有事への備えやテロ対策が優先されてもやむをえないという雰囲気の醸成がなされた。
☆安倍第2次内閣の下、2013年以後今日まで情報の統制が進展してきた。
それは、「権力による情報の独占と統制」と定式化できる。
・03年の特定秘密保護法は、公的情報(防衛・外交等)の秘匿と漏示の禁圧
・同年の共通番号(マイナンバー)法は、個人情報の国家管理化である。
☆同時に市民監視が強化されてきた。
・権力による市民監視は、市民の発言に萎縮をもたらし、表現の自由を毀損する。
・監視カメラの増殖、盗聴法改悪による盗聴機会の拡大、マイナンバー法の施行。
・さらに、市民監視加速ツールとしての共謀罪法が成立し、市民間のコミュニケーションの自由に深刻な影響が出ている。
☆ここまで、情報は「お上」のものとして、市民からの取り上げが進行してきた。
2 その規制は、今後どこまで及んでいくのか。
☆表現の自由に対する権力からの規制は、より一層進むことになるだろう。
☆まず、権力による市民監視は次のような進展が予想される。
・盗聴の範囲の拡大 共謀罪の全277罪を対象範囲に拡大
・居住の室内に立ち入っての会話の盗聴が可能となる
・司法手続を介在しない「行政傍受」も可能となる。
・以上が、東京オリンピックにおけるテロ対策を口実に行われる危険がある。
・通信履歴保管の法的義務化。
・さらには、本格的な情報・諜報機関の創設も警戒しなければならない。
☆憲法改正による、表現の自由そのものの切り捨てが懸念される。
・12年自民党改憲草案は、21条2項で「公益・公序を害する結社の禁止」を明記。
・結局は「お上」が許容する範囲での「官製言論」だけが横行する社会に。
・「自衛隊加憲」も「国防軍創設」も、国防強化は表現の自由を圧迫する。
・国家や社会の安全安心という価値は、表現の自由と相容れない。
・今後、憲法改正を許せば際限なく表現の自由への規制が拡大していくことになる。
3 表現の自由規制の中にあって、メディアの役割と課題は何か。
☆本来、メディアは表現の自由規制の強化に対して、立場を超えて連帯し、市民と手を携えて、権力と格闘しなくてはならないはず。しかし、現実にはそれができていない。
☆こと表現の自由制約に関わる問題については、政治的立場の如何を問わず、共闘しなければならない。これは、ジャーナリズムにとって当然のこと。メディアが、ジャーナリズム本来の姿から乖離しつつあるのではないか。
☆権力からの要請に応えての取材の自主規制合意(イラク戦争時が典型)などは再検討しなければならない。
☆喫緊の課題として、国民投票法における「国民投票運動の自由」についての再検討が必要であろう。国民投票法では運動の自由の側面が強調されすぎた感があるが、自由だけでなく公正も重要な価値である。金のある側が、際限のないテレビコマーシャルの垂れ流しが可能では、公正な競争にはなりえない。
☆メデイアによる国民投票運動について、自主ルールの作成が必要となるだろう。
おわりに 市民はどうするか
☆メディアが対権力の関係で、表現の自由を守り抜けるか否か。それは最終的には市民の問題だ。市民が最終的な受益者でもあり、被害者にもなる。
表現の自由を支え、豊かにしていくのは、市民の活動にかかっている。
☆今や市民は単にメディアからの情報の受け手ではない。ネットの空間では、対権力の関係で、表現の自由を守り抜けるか否か。それは最終的には市民の問題だ。市民が最終的な受益者でもあり、被害者にもなる。
表現の自由を支え豊かにしていくのは市民自身であって、その活動にかかっている。
☆のみならず、市民自身も表現者となりつつある。とりわけネット空間においては、市民自身が情報の発信者となりつつある。市民は、知る権利を持つ者として間接的に表現の自由制約に関わるだけでなく、表現の自由行使の主体としても直接的に表現の自由制約に関わりつつある。
田島さんは、時間いっぱいに熱く語りかけた。教え子である多くの女子学生が、真剣にメモをとりながら受講していた。ここから、第一線のジャーナリストが輩出されるのかと思えば、日本のジャーナリズムの将来は悲観ばかりではない。そう思わせる、「最終講義」であった。
(2018年1月20日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.1.20より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=9788
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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