フェミニンな男性を肯定したい
世界の東西を問わず、「男と女」または「父と母(父性と母性)」の二分化は、かなりの昔から、「生理的な自然」と納得させられるほど内面化させられてきた。
とりわけ、「父性の尊厳」と言われると、思わず仰ぎ見て胸を高鳴らせたり、他方「母性」と言われると、「聖なる」という修飾語を思い浮かべ、「深い深いやさしさ」に縋りつきたくなる。・・・こんなことを言うと、フェミニズムの洗礼を受け、ジェンダー論が一般化している時代に、何を今さら!と笑われるかもしれない。しかし、「男と女」「父と母」の二項対立は、これからもしぶとく対象化し、粘り強く問題視していかなくてはならないテーマだと、私は思っている。
山崎ナオコーラは、「上の世代のフェミニストの方々が頑張ってくれたおかげで、私は学校で平等教育を受けている」。そのため、「女性の地位が低いとは決して感じなかった」(p.177)と述べている。もちろん、よ~く見ると、学校でも、また社会の中でも、未だに多くの「女性差別」が罷り通っていることも事実ではあるが、だが一方では、フェミニズムや人権思想が功を奏してきていることも嘘ではない。山崎ナオコーラは、後者の地平で、それでもなお根強いジェンダーバイヤスが気になるのだと思う。
彼女は言う、「フェミニンな男性を肯定したい」と。しかし、「フェミニンな男性」だと二元論から脱却できていないから「多様な男性」の方がいいのかもしれない。また、「肯定したい」だと上から眼線でえらそうだから、「魅力的に書きたい」の方が合っている気もするが、「それだとぐっとこないから、とりあえず、このフレーズで行こう」とアピールしている(p.171)。
そのような彼女だから当然ではあるが、夫に対しても次のように言い切っている。
「私は、『母ではなくて、親になる』と書いているのだから、夫に対しては『父ではなくて、親になれよ』と思っている。私は夫に対しても露ほども、『マッチョになって、子どもを守って』『育児資金を稼いで』『ときには威厳を見せて、子どもを叱って』なんて思っていない。それぞれが、いい親になれば良い。役割分担をする気はまったくない」(p.175)。
事実、彼女の、「夫は、『女性は違う』『母親はすごい』といったことを一切言ってこないで、普通に親同士として接してくれるので、ありがたい」(p.87‐88)とのことである。うまくカップリングできたケースだろう。
ところで、いきなり時代をぐっと遡るが、戦後の1960年辺りから20世紀の終わりくらいまでは、常識的な「性別役割」を外れたカップルは、それぞれにギクシャクした関係に悩まされたケースが多かっただろうと思う。
私が高校1年の時(1958年)、あの有名な「風と共に去りぬ」の小説と映画がブームになった。(第2次世界大戦中の1939年、米国で製作された超大作映画だが、日本初公開は、戦後の1952年だという。北九州には、かなり遅れてやってきたのだろうか・・・)
小説でも映画でも、もちろん主人公はじゃじゃ馬のような勝気なスカーレット(映画ではヴィヴィアン・リー)。それでも彼女が夢中になるのは男性的なレット・バトラー(男優はクラーク・ゲーブル)。私の友だちの間では、レット・バトラーに夢中の人ばかりだった。しかし、その時、私はレット・バトラーに少しも惹かれることなく、スカーレットが最初こそ少し惹かれて、後はさっさとサヨナラした静かな文学青年風アシュレーだったのだ。「セクシャリティ(性的嗜好)」などという言葉はまだ知る由もなかったが、「あぁ、私の好みは少数派なんだ」と悟った初めである。
そして大学時代。同じサークル仲間の男性と仲良くなり、ついに同棲した。体格も大きい方ではなく、気持ちの「やさしい人」だと思っていた。しかし、暮らしの中で彼の「亭主様々ぶり」が露わになってきた。上に姉が二人の末っ子の長男というのも最悪だった。「やさしい気持ちの持ち主」は嘘ではなかったが、現実的には何もできない家政能力ゼロの男性だったのだ。外出から帰った後の洋服は脱ぎっぱなし、持ち物の整理もしない。調理・洗濯・掃除どころではない、身の回りの始末さえ自分でできない(というより、「したことがない」「いつも母か姉たちがやってくれる」)男性だった。
その意味では、ナオコーラさんの言う「フェミニンな男性」という言葉も、もう少しいろいろな側面から、言葉を足していかなくてはいけないのかもしれない。表面的にマッチョでない、というだけではなくて、「女や母に甘えない」「自分のことは自分でできる」、いわば「当たり前の一人の人間」ということなのだけど・・・。
最近、大前粟生(あお)さんの『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社)という本を見つけた。女性差別やジェンダーバイアスに傷つくのは、いつも女性だけではないということを踏まえながら、ナオコーラさんの言う「フェミニンな男性」という表現をもう少し先に進めた、感性や振る舞い、生活技法をも含めた人間のあり方を、さて、どのように表現すればいいのだろうか、また、それは可能だろうか。どうやら、今後の宿題となったようである。
「一人でいられる時間」の大切さ ― 親にとっても、子どもにとっても
ナオコーラさんは、とりあえず自宅で仕事ができる執筆業、そして彼女の夫も、かなり無理をしているようだが、勤務時間にさほど厳しく縛られる職場ではなさそうである。ただし、「育児休暇」が取得できるような職場でもないようだ。だから、親の産休明けからの「0歳児保育」の問題・テーマは登場しない。(また、彼女には「幼稚園」と「保育所(保育園)」との区別もついていないようだp.226-227・・・余計なことだが。)
しかし、彼女は正直に書いている。
「赤ん坊といるときに赤ん坊と離れたいと思うことはなかったのだが、赤ん坊と離れて家の外に一歩出るだけで自分の気持ちが解放されるのがわかった」(p.95)。
私が、子育て問題に関して、常に保育所問題をセットにしているのは、保育所とは、
「子ども」のための場所(施設)でもあるが、一方、親のための場所(施設)でもあるからである。「親」になったからといって、24時間ぶっ通して「親」でなければならない訳ではないだろう。365日、毎日休みなく「親」でなければならない訳でもない。
昔は、保育所に子どもを預ける親(特に母親)を「子捨て」呼ばわりした。今現在でも、「子どもを3年間、抱っこし放題!」を理想的な「育児イメージ」だと思っている政治家すら居る。ここは、誤解しないでほしい。人間は、たとえ「親」になっても、「一人の時間」は大切だということ。
また同じことが、子どもの側からも言える。
ナオコーラさんは、子どもが11カ月を迎えた頃、次のように書いている。
「(赤ん坊は)カーテンの中に長時間いる。自由な時間があるとひとりで窓際へ行き、カーテンを揺らして遊んだあと、中に入ってしまう。そして、窓を触ってつかまり立ちしたり、外の景色を飽きずに眺めたりしている。」
「・・・あと、赤ん坊は鏡が好きだ。リビングルームに姿見がある。そこでつかまり立ちをしたり、自分の顔とずっと向き合ったりしている。
自分だけの世界を持ち始めたのだろう。私と一緒にいるのも好きなのだろうが、ひとりで過ごす楽しさも発見したみたいだ」(p.249)。
その意味では、保育所に居る時間ですら、「みんなと一緒」に居ながら、それぞれに「自分一人の時間」も考慮されているのが、当たり前になるといい。
(さて、新型コロナウイルスの感染拡大への対処のために、止む無く、幼稚園の休園、保育所の原則休園が続けられてきた。病院や介護の現場と同じく、人と人とが密接に触れ合う現場である。触れ合うことを禁止しては成り立たない現場である。今回は、事前に対策を検討する間もなくの処置だった。しかし、今後はどうあればいいのか・・・大きな、悩ましい問題であるが、子どもたちの成長や生活は「一旦停止」することはできない。よりマシな方法・あり方を、現場から何としても捻りださなくてはならないのだと思う。)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye4734:200601〕