ちょっと寄り道―NHK朝ドラ「なつぞら」から
テレビといえば、大きなニュースを見るか、何年も続いている(したがって上達もしない)ハングル講座を見るか、あるいは新旧の映画を録画して見るか・・・その他はほとんどテレビを点ける事のない私だが、NHKの朝ドラは、ここ数年見続けている。もっともこの番組を視聴している多くの人は、朝の忙しい時間(あるいはお昼の再放送時)に「ついでながらに見る15分」なのかもしれないが、私は朝ドラも他の映画などと同様、録画して、夜の適当な時間に「消化」している。
「朝ドラ」を見るようになったのは、主人公の名前が「陽子」という「おひさま」(第84シリーズ、2011年4.4~10.1)からである。偶々親しくしていた先生が、「私の名前は、太陽の陽子」と言っていたことから、見始めたのだ。とりわけ惹きつけられた訳ではないが、連続ものというのは習慣化しやすい。一つが終わると、どれどれ次は?・・・ということになり、「あまちゃん」「花子とアン」「あさが来た」などと続き、今回の第100回シリーズの「なつぞら」にまで至っている。
「なつぞら」は、大森寿美男作で、時代は1946(昭和21)年5月から始まる。兄と主人公「なつ」と妹の三人兄妹は戦災孤児。なつは父親の友人に連れられて北海道十勝の農家で育てられ、やがて上京してアニメ漫画のプロになっていくという筋書きである。9月末で完結なので、このシリーズの山場はほぼ越えた感じではある。
この「なつぞら」では、その家庭に入った子どもと養親との関係、または元々のその家庭内での子どもと養われている子どもとの関係など、「家族」をめぐる「血縁」「義理」ということも考えさせられるが、今回は、「0歳児の保育」に焦点を当てたくなった。
なつがアニメ制作に携わる同僚と結婚し、子どもが生まれ、「仕事と子育て」に悩むことになる8月後半以降、このまま見過ごすわけにはいかなくなったからである。
0歳児の保育所保育―1968年時点と現在
ドラマでは、赤ん坊が生まれても、母親のなつはアニメ制作の重要なポストを投げ出すわけにはいかなくなる。時代は1968(昭和43)年。偶然ではあるが、私の初めての妊娠は1969(昭和44)年、出産は1970(昭和45)年3月だった。ほぼ同時代といえるだろう。
なつと夫は、子どもが0歳の間は、その当時は退職して在宅で翻訳の仕事をしている夫が面倒をみることになる(その意味では、「男は外で仕事」という社会規範からは抜けている)。ただ、その時の、なつと夫や、十勝の義理の母親その他も、みんな口を揃えて、「生まれたばかりの赤ちゃんを、母親が仕事のために手放すなんて・・・母も子どもも可哀想・・・」というものだった。そして、翌年の春、夫も新しいアニメの小さな会社に就職が決まり、「1歳になった」ことだからと、やむを得ずしぶしぶ子どもを保育所に申し込むのだが、それも「すべて落とされてしまう」。
私の場合は、当時の公立保育所の多くは確かに「1歳児」からで、0歳児保育は極端に少なかった。ただ、認可外保育所では、0歳児から預かってくれる所もないわけでなく、私は、その保育所を友人からの口伝てで知り、その近くにいきなり引っ越したものだ。私も、「仕事を辞める」というのは選択肢としてはありえなかったので、本当に必死だった。
さて、なつ達の場合も「どうしよう!」と急場に立たされ、得意の絵を描いたポスターを近所に貼り出そうとするのだが、これまたラッキーなことに、少し前に母親になった元の職場の友人が、自分の子どもと一緒に面倒を見ましょう、という申し出をしてくれたのである。
日本の幼稚園と保育所の歴史や、「保育」という言葉は、もともと幼稚園保育から発生したものであり、子どもへの心身への「ケア」機能を併せ持った「広い教育」概念であること、にもかかわらず、戦後の「保育」という言葉は、厚生省管轄の保育所に限定され、とても狭い福祉的変質?を遂げてしまったこと、はこれまでにも述べてきたことである。
さらに、幼稚園の開始年齢が「満3歳」とされてきたことから、「3歳未満」は「家庭での母親の育児」が社会的な「常識」とされた。いわゆる戦後の「3歳児神話」である。
そのため、保育所入所も「3歳未満」の2歳児、1歳児は極端に少なくて、ましてや0歳児保育は非常に例外的だった。それは、0歳児は「集団保育」に馴染まないという考えや、病気にかかりやすいという特性、さらには、1998(平成10)年基準でさえ「乳児6人に保育者1名」であったのだが、それすら、人手がかかりすぎる=効率が悪い、と敬遠されたのである(現在は、「0歳児3人に保育者1名」となっている)。
なつ達の子どもが保育所に入所できたのは、子どもが3歳になってからの1971(昭和46)年である。手元にある「全都道府県別・年齢別保育所入所措置児数」1973(昭和48)年によると、4歳児以上:76.1%、3歳児:7.4%、1~2歳児:15.4%であり、0歳児は1.0%となっている。この数値は、保育所に入所している子どもたちの間の割合であるから、0歳児全体の中では、割合はぐっと少なくなる。
その後の、0歳児の全体の入所率を見ると、2006(平成18)年で8.7%(認可園は7.3%)、待機児童が問題になっていた2016(平成28)年でも、15.6%(認可園プラス認定こども園で14%)である。
数字の上でも、0歳児保育の実態は、50年前とさほどの違いが見えないのは驚きである。そのような現実の反映だからなのだろう、「なつぞら」でも、そこで醸し出される「母子」イメージが、50年前のことであるという認識は、制作者にも演者たちにも、全く感じられなかった。
「母子」ではない「ひとりの子ども」からの発想を
厚生省が「0歳児(乳児)保育」に重い腰を上げ始めたのは1970(昭和45)年前後といわれるが、確かに1969(昭和44)年に出された「保育所における乳児保育対策の強化について」の児童家庭局長通知の中でも、未だに「例外的かつ特殊な措置」であることが強調されていた。
私の二番目の子どもの出産は1972(昭和47)年だったが、長男の保育所とは別の保育所に通い、朝の登園時には、保育者は子どもを抱きかかえてしっかりと検温をする。体温が37度3分を越えると預かってもらえないルールだった。日曜日の明けの月曜日、子どもが母親から離れがたくてグジグジしていると、他の子どもの検温をしている保育者が「やっぱりお母さんがいいのよね~」と言い放つ。おはよう!と明るく子どもを迎えてくれないのである。その子はまもなく「0歳児の登園拒否」となった。
それでは、「母子」がセットになった現在の「子育て支援政策」のあり様の批判的な検討も含めて、「希望するすべての0歳児からの保育」とは、どのようなイメージになるのだろうか。次回は、ここをいま少し具体的に考えてみよう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔eye4640:190902〕