またまた「寄り道」―「新聞の投書欄」への反論
少し時間が経ってしまったが、今年の7月11日、朝日新聞に次のような投書が載った。
タイトルは、「初歩きの感激はママパパに」。投書主は、55歳の保育園長だった。
「勤務する保育園で1歳前後の子たちの部屋を訪れた時のこと。Aちゃんがふと立ちあがると、私の方へふらりと一歩を踏み出した。・・・よちよちと「人生の初歩き」を成し遂げ、私に抱きあげられた。私も先生たちも大喜びした。/うちの園には、園児が初めて歩いたことを保護者には伝えない暗黙のルールがある。人生で一度きりの貴重で尊い瞬間。その感激は、親がまず感じるべきものだから。(下線は引用者)お迎えの時、担任はお母さんに「そろそろ歩くかもね」とだけ伝えた。/帰宅後、この出来事を夫に話すと「保育園の粋な計らいだねえ」と言ってくれた。今ごろAちゃんはおうちで歩いているかしら?ご家族の笑顔を想像した。」
次々と痛ましい「児童虐待」のニュースが続く昨今、上記の投書の内容は、一見すると何とも微笑ましい明るい保育園の一コマと見えるだろう。
私もあえて「意地悪ばあさん」になりたいわけではない。しかし、この園の「粋な計らい」にはやはり「ちょっとタンマ!」と発したくなった。
なぜなら、保育所が、いまだに「希望するすべての子どもたちの場」になっておらず、「保育を必要とする」という親・家庭の条件で審査される「特別の施設」(狭い福祉施設)であることに、私は問題を感じているからである。しかも、この10月からの「幼児教育・保育の無償化」が、まずもって「無償化」という言葉が恣意的に誤って使われている上に、本当にすべての親や子どもの子育てを支えるものにはなりえていないからである。具体的には、現場の認可外保育所をめぐる線引き、各種学校付設幼保園の排除、また、幼稚園の「預かり保育児」の線引きや給食費の不必要な区分(主食とおかず)等々、事務の煩雑さをさらに増やしているだけではないか、と憤っているからでもある。
私はすぐさま、「‟初歩きの感激はママパパに”への反論」として、次のような文章を「声」欄担当者に送った。
「7月11日の投稿欄に、保育園長の「粋な計らい」(彼女の夫の言)の紹介がありました。
つまり、保育園でAちゃんが「初めて歩いた」事実を、「保護者には伝えない暗黙のルールがある」というのです。その理由は、「人生で一度きりの貴重で尊い瞬間。その感激は、親がまず感じるべきものだから」だそうです。/でも、ちょっと待ってください。ここには子どもの育ちの勝手な「物語化」と、過剰な感激と、「親」というものへの必要以上のおもねりがありはしませんか?/保育園(保育所)の歴史を考えれば、子育ては親が第一、保育園(所)はそれを支える場所、ではありました。しかし、家族や地域のさまざまな変化に伴っての現代の保育園(所)は、親と保育者は、共に子どもの育ちを見守り、支え合うパートナーだと思うのです。/子どもの「初めての寝返り」「初めてのお座り」そして「初歩き」も、子どもの成長の中の一コマです。確かに感激的な場面です。でも、子どもは一度できるようになると、その後は何度でも繰り返します。お迎えの時に、「Aちゃん、今日歩きましたよ!」と言えば、「ワア、そうですか!うれしい!」で済むことではありませんか?」
私の言いたいことはヘソ曲りだろうか?せっかくの楽しい気分に水を差すだけなのだろうか?そう思いながらも、少々「甘い」私は、この投書がひょっとしたら採用されるかもしれない・・・と期待していた。もちろん、その後はさらに反論が重ねられることも覚悟してはいたが・・・。
実際は、完全に無視、すなわち「ボツ」にされた。しかも私の「反論」を嘲笑するかのように、次のような投書が採用されたのである(8月31日)。
「人生初めて」まだあるかな。67歳の主婦からである。
「・・・保育園で園児が初歩きをしても、「人生初」の感動はまず親に味わってもらおうと、パパやママには伝えない暗黙のルールを設けているという内容でした。なんて素晴らしい園でしょう。/以前、長女が子どもに初めてジュースを与えた時の様子を話してくれたことがありました。生まれて初めて口にするジュース、私には孫にあたる子は目をぱちくりさせて驚き、全身で喜びを表現した、とのこと。感動はそばで見ている者にとっても心地よく、親子ともども感慨深いひとときだったのではないかと想像しました。/そしてふと、私の人生にあとどれほどの「初めて」が残っているだろうか、と考えてしまいました。心躍る体験や感動をぜひ見つけたいものです。」
「初歩きの感激はママパパに」?―しつこくさらに反論
「生きる」ということは、何歳になっても「初めて」の積み重ねではないか。「初めて」というのは常に楽しく感慨深いものとは限らない。戸惑ったり、悲しく寂しい「初めて」もある。・・・そんな人生論的なことをまずは言いたくなったが、ここは「保育園」問題である。シビアな問題を「きれいごと」で覆ってほしくない。私はしつこく、さらに「反論」を投稿した。
「「人生初めて」まだあるか(8月31日)の投稿は、7月11日の保育園長の「粋な計らい」を受けての67歳主婦の心温まる感想である。いくつになっても、「初めて」の経験や感激を楽しみたい、という思いに水を差すつもりはない。
しかし、私は先の保育園長の「粋な計らい」にあえて異論を提示したい。それは保育園が今なお「家庭」や「母・父」の子育ての代行、という社会通念からふっきれていないと憂うるからである。もちろん、家庭の役割、母や父の役割の大きさに異論のあろうはずはない。にもかかわらず、現実は、家庭の母・父を支え、「共に子育て」を担うパートナーとして保育所があり、保育者の役割があるのではないかと考えている。だからこそ、「子どもの初歩きはまずは親が感激すべき」という配慮は少々オーバーで「お節介」すぎはしないか。
子どもの「初めての寝返り」「初めてのお座り」そして「初歩き」も、子どもの成長の中の一コマである。確かに感激的ではある。でも、子どもは一度できると何度でも繰り返す。お迎えの時に、「Aちゃん、今日歩きましたよ!」と言えば、「ワア、そうですか!うれしい!」で済むことではないのか?」
最初の投稿がボツになったので、最後の方は繰り返しである。
慌てて投稿したのが8月31日の夜中。それから丸々一ケ月が過ぎた。やはりまたもやボツなのだ。
「保育所とは何か?」をまじめに議論する風土がないのか?さらに、「子育てにおける家族や、とりわけ母親」への思い込みの強さ。ここを拓いていくためには、何が必要なのだろう。日本の社会の手強さを感じつつ、やはりこの「家族」や「母」への通念や社会的構造に少しでも穴を開けたいと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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