編集部:註
本稿は当初第1部の掲載予定だったが、第2部も掲載する。全体は下記の通りである。
はじめに 人新世と資本主義 (一)
第1部 多いほうが貧しい
第1章 資本主義――その血塗られた創造の物語 (一)
https://chikyuza.net/archives/131145
第2章 ジャガノート(圧倒的破壊力)の台頭 (二)
https://chikyuza.net/archives/131202
第3章 テクノロジーはわたしたちを救うか? (三)
https://chikyuza.net/archives/131230
第2部 少ないほうが豊か
第4章 良い人生に必要なものは何か (四)
https://chikyuza.net/archives/131339
第5章 ポスト資本主義への道 (五)
https://chikyuza.net/archives/131378
第6章 すべてはつながっている (六 最終回)
第6章 すべてはつながっている
2016年国際的な科学者チームが、新世界(南北アメリカと周辺の島々)の熱帯雨林の再生に関する調査を発表した。原生林が自然に回復するには平均でわずか60年しかかからないことを彼らは発見した。森林が再生すると大気中から膨大な量のCO2を吸収する。温暖化にブレーキがかかる。私たちが産業活動を縮小し始めれば生物界は驚くべきスピードで回復するのだ。資本主義の成長が自然を破壊・収奪してきた。私たちは資本主義を超えて進化する必要がある。そのためには資本主義を支えている真の原因を知らなければならない。資本主義は、歴史上はじめて自然を人間とは根本的に異なるもの、すなわち、自然は人間に従属し人間に備わる精神を持たないものとみなすことを人々に求めた。資本主義は人間の心まで支配(植民地化)してきた。私たちは、資本主義を超越するには心の植民地化を脱しなければならない。
<アミニズムのエコロジカルな暮らし>
アマゾンの流域は緑に覆われ,蒸気が立ち上り、つるが絡み合い生命が満ち溢れている。そこで暮らすアチュアル族にとって自然は存在しないと見る。彼らはジャングル一帯に人間を見ているのだ。ジャングルに生息する動植物のほとんどが人間の魂に似た魂(ワカン)を持っている、人間と同じ主体性(意思)、それに自意識を持っていると見ている。彼らは動植物を親類と見ている。ジャングルは親密なつながりのある親類関係に満ちた場所なのだ。アチュアル族は森を共有する。そこに住む動植物と良好な関係を保つことが生活を維持する為に欠かせないことを知っている。西洋人のように人間と自然を区別しない。彼らには天然資源、原材料さらには環境という概念は存在しない。彼らが動植物を食べるのは採取ではなく交換の精神で行っている。自らが依存する生態系を損なわず、豊かにするためにできる限りお返しをしなければならない。生物界を意志と社会性が息づくものとしてとらえている。人類学者はそうした考え方をアミニズムと呼ぶ。宗教学者のグラハム・ハ―ヴエイはアミニズムを「「その世界は人で満ちている。人間はその一部に過でしかなく、常に他の生物との関係の中で生きている」と定義している。先住民は生物を育て、育んでいる。すべての生き物が基本的に相互に依存していることを理解している。資本主義の価値観とは全く異なる。
<デカルトの敗北とスピノザの勝利>
デカルトは、創造物を二つに分けた(二元論)。「一方は精神(魂)で、もう一方は単なる物質だ。精神は特別で神の一部だ。人間は精神を持つという点で特別な存在だ。自然は精神を持たない、意識はない単なる物質だ」と考えた。この考え方は教会の権力を強化した。資本家の労働(人間の肉体をモノとして捉えた)と自然からの搾取を正当化した。植民地化に道徳的許可を与えた。
スピノザは、全く逆のことを考えた。宇宙は一つの究極の原因(現在で言うビッグバン)から生まれたに違いないと考えた。人間と自然は異なる種類の存在のように見えるが、実は唯一の壮大な「実在」の異なる側面に過ぎず、同じ力に支配されていると主張した。ユダヤ人社会はスピノザを破門した。デカルトの思想を支持した。二元論的思考は現在も続いている。しかし、科学は二元論を否定した。精神は他のあらゆる物と同じく、物質の集合であることが認められた。20世紀半ばからの「現象学」は、人間の意識、即ち自己は抽象的で超越的な精神の中には存在し得ない。すべての意識は現象を経験することから生まれ、経験は基本的に身体に依存する。自意識は世界における身体的経験から生まれる、と主張し精神と身体を区別することを否定した。私たちの知るすべて、考えるすべて、私たちであるすべては他の主体(動植物を含む)との相互作用によって形づくられるのだ。私たちは、自らを幅広い生物コミュニテイの一員とみなすことを学ばなければならない。
<第二の科学革命が明らかにする人間と他の生物との関係>
この20年間に重要な科学的発見が相次ぎ、人間と他の生物との関係についての認識が根本的に変わり始めた。微生物としての細菌を病原菌と呼び敵視している。しかし腸内には何兆もの微生物が生息し、食物を分解し、栄養素に変えることで腸の消化吸収作用を支えている。又、一部のウイルスは体内の細菌の働きのバランスを支えている。ミトコンドリアは、進化の中で人間の細胞に住み着き、人間の細胞の中に存在する細胞器官となり、独自のDNAを持っている。ミトコンドリアは、食べ物を身体が利用できるエネルギーに変えている。人間は細菌やウイルスなしに生存できないのだ。又,木は細根菌に依存して生きている。菌類は、ネットワークを形成しコミュニケーション、エネルギー、栄養、薬効成分の共有さえ可能にする。植物は自分に起きたことを記憶し、それに応じて行動を変化させる。木は私たちともつながっている。森を散歩した人は、都市を散歩した人に比べ大幅に気分が良くなり、緊張、不安、怒り、敵意、鬱、倦怠感が減少したという実験結果がある。樹木の近くに住むと、心血管疾患者のリスクが下がるが科学者はまだその理由を解明できていない。科学者たちは植物、動物、細菌のバイオーム(生物群系)が、陸地、大気、海洋とどのように相互作用しているか学んでいる。徐々に先住民のアミニズムの世界に近づきつつある。
<ポスト資本主義の倫理>
もし植物に知性があるならば、作物の収穫はある種の殺人行為に他ならない。アチュアル族などのアミニズムのコミュニテイが直面するジレンマだ。彼らは必ずしも非倫理的行為ではないという。非論理的なのは感謝の気持ちや互恵の念を抱かずにそのような行為をすることだ。アチュアル族にとって重要な原則は互恵主義である。生物界からの贈り物と考える。贈り物に対しお返しを考える。自然をものとして採取する資本主義の論理とは真っ向対立する。
生態学者は生態系の健全さを理解し、管理することに長けている。彼らの知識を活用すれば生態系を再生する方向へ転換できる。互恵関係の出番である。農業の例では、バージニアからシリアに至るまで「環境再生型農業」に取り組んでいる。堆肥、有機肥料、輪作によって土壌に生物と肥沃さを回復させようとするものだ。収穫の後には必ずお返しをしているのだ。資本主義農業の下では化学殺虫剤、除草剤をふんだんに使い豊かな表土を粉塵に変え、地中に留まった膨大な量のCO2を放出させてきた。又、昆虫は激減し、化学物質の流出により淡水の生態系全体は破壊された。そこには互恵関係は存在しない。
互恵関係の原理を更に発展させるため、自然に法人格を与える動きが広がっている。ニュージーランドでは、ウレウエラ国立公園が法的人格を認められ、人間に付随する権利、義務、法的責任を与えられた。エクアドルで2008年制定の憲法は、自然そのものに「その重要なサイクルを存続、持続、維持、再生する」権利を認めた。そこには多くの可能性がある。川と流域に害を及ぼしかねない大規模な工業プロジェクト阻止する取り組みが成功している。先住民族のコミュニテイと支持者たちが「母なる地球の権利に関する世界宣言」を国連総会で採択させようとしている。
<少ない方が豊か>
意識の重大な変化が起こり始めている。生態系の危機は人間を超えた世界との関係について私たちを新しい考え方(というより古来の考え方)へ導いているように思える。その考え方は問題の核心へ私たちを向かわせる。それは資本主義の教義から解放され、生命ある世界との互恵関係に根差す未来だ。人間の幸福と生態系の安定を重視するポスト資本主義へと移行しなければならない。脱成長はこの困難な問題にアプローチする道筋を示している。脱成長が意味するのは、土地と人々更には私たちの心を脱植民地化することだ。また、コモンズの脱囲い込み、公共財の脱商品化、労働と生活の脱強化、人間と自然の脱モノ化、生態系危機の脱激化を意味する。脱成長は、私たちを希少性から豊富さへ、搾取から再生へ、支配から互恵へ、孤独と分断から生命あふれる世界とのつながりへと進ませるのだ。以上
終わり
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13388:231118〕