「賢治とモリスの館」を訪ねて -環境藝術と悦びの労働を知る旅-

 杜の都仙台を流れる広瀬川の源流、作並温泉・都の湯に泊まり、山ふところの、草花に映える瀟洒な館を初めて訪ねました。仙台シンポジウム「協同の力で復興を!」の翌日10/9快晴の日曜日。この館は同シンポジウム呼びかけ人代表・大内秀明先生(東北大学名誉教授)の個人ミュージアムです。

ロンドンからテムズ河を遡り、「世界で一番美しいむら」コッツウォルズへの船旅―ウイリャム・モリスの『ユートピアだより』を想わせる館の庭は、イチイの生垣、モリスが愛したスタンダード仕立ての薔薇に似た薔薇が並び、石の小舟にハーブが香り、野花の先に地元の工業高校生たちが作った小屋があります。その横裏はカタクリの群生地で春には姫ギフ蝶が舞う。大内先生のいきいきとした説明を聴き、山を眺めて深呼吸すると、じつにいい気分です。

ウイリャム・モリス(1834—1896イギリス人)は、詩、小説、絵、デザイン、独特の文字の美しい書籍、ステンドグラス、造園・園芸など全人的な藝術と社会活動の人、かれのアート&クラフツ運動が柳宗悦に与えた影響は知られていますが、かれの社会主義は日本ではあまり知られていません。

モリスデザイン柄のスリッパで館内に入ると、玄関横に【今もなほ 蕨生ふるや 茸いづや わが故郷の痩せ松原に】堺枯川(利彦)真筆の書が。この歌はふるさと福岡「望郷三部作」の一首で堺の死後、鈴木茂三郎→大内兵衛→大内力→大内秀明に。堺利彦はモリス著『ユートピアだより』本邦初の抄訳『理想郷』(明治37年平民文庫5銭)を刊行しました。今では高価なこの原本も見られます。  

大逆事件、幸徳秋水の平民社弾圧後、堺利彦(獄中にいて大逆事件の冤罪を免れ、売文社を起して同志を助けた)はロシアボルシェビキ革命以前のモリス社会主義に共鳴していたことがわかります。

館内はモリス作品の宝探しのようです。精巧な初版本、デザイン画の数々、タペストリー、ステンドグラス、家具、工夫をこらしたカーテン、ランプもタイルも、、、つぎつぎ心うばわれ、グリーンダイニングルームへ。青いモリスカップの珈琲とこの地の食材料理と近所の湧水と。デザートには賢治ゆかりの花農林檎焼も。絶品の味、しかも美しく、そして大内秀明先生の講義です。

<モリスから賢治への思想の流れ、賢治の「農民芸術概論」から「羅須地人協会」の活動、環境藝術の大切さ。「芸術をもて あの灰色の労働を燃せ」「都人よ 来ってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」賢治は法華経の仏教徒であるが、その言葉と活動には社会主義の思想が読みとれる。プロレタリア独裁の公式とはまったく違う自在な思想にはっとして、調べた。モリスの「芸術の回復は労働における悦びの回復でなければならない」の言葉を賢治はメモし、モリス思想への共感を記していた。(賢治の生まれ年は明治三陸大津波、そして冷害や干ばつ、飢饉、貧困、窮乏、娘売り子売り。百姓の労働は辛かった。惨めな環境を変えたいと賢治は切実に思ったに違いない)   

W・モリスの前半生は隠れ家での多才多彩な藝術創作の日々だったが、晩年に変わった。美が社会的要素を充たすことこそ大事だと考え、産業革命後の機械的過酷労働ではない、「悦びのある仕事を」。それには環境を改革することだと考えた。プルードンやキリスト教社会主義を経て、マルクスの『資本論』をフランス語で熟読、マルクスが最も愛した末娘エリノアを支え、ドイツ語のできるバックスからマルクス経済学や哲学を学び、社会活動をする。なのに「空想的社会主義」と言われ軽視されたのは、エンゲルスの偏り主導権志向にあるようだ。『空想より科学へ』→自由に「科学から空想へ」

マルクス・レーニン主義の公式論を賢治も嫌い、ロシア革命を批判した。その後のスターリン独裁の悲劇など見れば賢治の直観は当たっている。

芥川龍之介の東大文学部の卒論はモリス論、夏目漱石も『地上楽園』を読み、蔵書の中にモリス本があり、英国留学中に読んだと思われる。「羅須地人協会」を主宰した宮沢賢治はモリスを継承しながら「農民芸術概論綱要」を実践し、四次元の芸術論に発展させた。>

珈琲をいただきながら拝聴し、メモがないので、お話の一部の要約です。同行の6人は「ポスト資本主義研究会」の研究者、同席のお2人はマルクス経済学者ですから正しい解説をお聞きしたい。

モリスデザインに惹かれてお供した素人の私には、高度で新鮮なお話でした。精神的豊かさを味わうことができました。帰宅後は。脱原発経産省座り込みや講座などで疲れても寸暇に関係書を少しずつ読み進み、庭仕事のとき賢治作の「星めぐりの歌」を口ずさんで悦びを感じています。

東北の避難所で思わず「雨ニモマケズ」を口にした被災者達の気持!とは違う賢治痛烈批判のインテリ本も出ました。「雨ニモマケズ」の詩が「修身」に使われる事など賢治は少しも望んでいなかったのに、自己犠牲を美化する賢治の卑怯な内面に起因するという中傷や1920~21年の国柱会入信、布教活動への批判も。国柱会には石原莞爾がおり、板垣征四郎や東条英機も関係したけれど、賢治は「満洲国」には関係なく、1924年自費出版した『春と修羅』が辻潤に賞賛され、イ―ハトヴ童話を書き、26年には農民芸術を実践した。エスペラント語を習得、「労働に悦びを」と自分も百姓しながらセロやオルガンなど農民と共に。『資本論』も読み、労働農民党に尽くし、モリスのように花壇のデザイン造成もした。『賢治とモリスの環境藝術』大内秀明編著を読んでいただきたい。

賢治の没年に小林多喜二が虐殺された。賢治は警察に尾行され調べられ、活動を控えたことへの批判。私は小林多喜二を尊敬し痛み、賢治を弁護する。古い農村で生きる農民への弾圧・悲劇を慮った賢治がそんなに悪いか、と言いたい。

 私共の中学社会科の授業は「春と修羅」などの詩歌、高校の自由研究は賢治の童話と詩だった、その記憶の詩の断片が被災地・気仙沼と陸前高田のガレキの荒野で、絶句したあと、ほとばしり出た。

風景は涙にゆすれ「いかりの苦さ また青さ 四月の気層のひかりの底を 唾しはぎしりゆききする」 「天雲のわめきの中に湧きいでて いらだち燃ゆる サイプレス、、」

☆「雲からも 風からも 透明なエネルギーがそのこどもにそそぎくだれ」☆印は最近いいなと思った詩の一行です。賢治は詩の天才です。絵も作曲もいい。37歳の早世が惜しまれます。

デンマークに環境問題の研修に行った1997年、「風のがっこう」一期生として自然エネルギー作りを学んだあと、主催のケンジ・ステファン鈴木さん(デンマーク国籍)が「私の祖父の会社で働いていた賢治さんが倒れた、そのとき聞いたままを書いた手記です」と渡されたその文は、賢治最晩年の様子でした。岩手県東北砕石工場の技師として懸命に働き、石灰肥料、壁材の宣伝販売のため上京、泊まった安宿、襖だけの隣室で酔客が朝までどんちゃん騒ぎ、賢治は一睡もできず、翌日も重い石灰入りトランクを提げてセールスに回って疲れ果て、汽車に乗るなり寝入った。窓から煤煙の風が吹き込み、喉と肺を痛めて発熱、帰るなり倒れた。

その病床で11/3手帖に記した詩が「雨ニモマケズ」、末尾に法蓮華経が。1933年9/21肺炎で他界。賢治さんの死は痛ましい。ですがケンジ・ステファン鈴木さん達デンマークの人々は明るかった。85年に原発導入を否決、多様な自然エネルギーを地域で、協同で、創出している働く人びと!余暇に演劇や音楽や絵画・彫刻など楽しむ農民や酪農家がいた。あの研修旅がいま心奥から鮮やに甦るのは、仙台シンポジウムに参加し、作並で「環境藝術」を学んだからだと思います。

「賢治とモリスの館」見学(食事)は完全予約制。2005年からの館ホームページ :http://homepage2.nifty.com/sakunami/index.htmlが充実しています。

大内秀明先生(右端)による「賢治とモリスの館」山野草ガーデンの説明

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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