「賢者は乱世を去る」という思想

『論語』憲問篇に次のような章がある。「子曰く、賢者は世を辟(さ)く。その次は地を辟く。その次は色を辟く。その次は言を辟く。」私はこれをこう現代語訳した。「孔子がこういわれた。賢者は無道の世を避け、身を隠すものである。それに次ぐものは乱れた邦を去るものである。さらにそれに次ぐものは礼の廃れた宮廷を去るものである。そして終わりは不善の言を発する主君を去るものである。」

孔子が魯を去って衛に亡命するのが56歳の時である。だが彼は政治世界から隠退したわけではない。自らの政治理想の実現の場を求めた孔子の諸国巡遊の旅はそれから始まるのである。衛から曹・宋・鄭・陳・衛・陳・蔡・楚・衛を巡遊すること14年であった。最後に魯の故地に帰った孔子は69歳であった。孔子には現実の政治世界とのかかわりを絶って隠棲するという隠者的進退のあり方はなかった。

だが孔子には、「危邦には入らず、危邦には居らず。天下道有れば則ち見(あらわ)れ、天下道無きときは則ち隠る」(泰伯一三)という言葉に見うるような乱世にあえて踏み込んだりせずに身を隠すことの方がむしろ君子であるという思想がある。冒頭に引いた憲問篇の孔子の言葉もそれを現している。

だが「天下道有れば則ち(あらわ)れ、天下道無きときは則ち隠る」という危機対処のあり方はわれわれには分かりにくい。それはただ危機からの日和見主義的な逃亡としてしかみなされない。われわれには亡命とか、あるいは内部亡命的に隠棲することがとりうる一つの政治的態度であるというような〈亡命の思想〉がないからであろう。私はそれとともに、「乱世を去り、乱邦を去り、乱君を去る」ことを毅然としていいうるところに〈自立的な言説者〉を発見する。ここには乱世と乱邦と乱君と対等に立つ〈自立的な言説者〉孔子がいるのである。現代の『論語』の解釈者たちはこのような孔子を発見することはない。質の悪い現代語訳の例として吉川幸次郎の訳をあげておこう。

「もっともすぐれた人物は、その時代全体から逃避する。その次の人物は、ある地域から逃避して他の地域にゆく。その次の人物は、相手の顔色を見て逃避し、その次の人物は、相手の言葉をきいて、それから逃避する。

なににしても、逃避、隠遁についての教えであり、突如としてあらわれる感じをまぬがれない。しかし孔子は、がむしゃらな理想主義者でなく、人間はさまざまな環境に遭遇することを、よく心得ていたから、不幸な環境にいる場合の教えとして、こういう言葉をも吐きそうにも思える。」(吉川『論語』)

[この憲問篇の章を含む『論語』講義を今週末28日(土)に論語塾でいたします。]

論語塾・日時:5月28日(土)12時〜15時

会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5

初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.05.24より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/60479347.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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