「転進」と「タイコ持ち」の花ざかり ―2015年元旦各紙を読む―

著者: 半澤健市 はんざわけんいち : 元金融機関勤務
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 六回目の読み比べである。今年は朝日、毎日、読売、日経、産経、東京にThe Japan Times を加え七紙を読んだ。結論を先に言うと、14年までの最近数回と比べて、紙面も評価もほとんど変わらない。むしろ紙面から年々情報量が減って退屈になっている。お前の頭の進歩が停止した証拠だという批判があるだろう。そういう読者は是非記事を読んで具体例を示して反論して欲しい。

《朝日は「転進」したのである》
 今回は、国民的なバッシングを浴びた朝日の姿勢に注目して読んだ。
その感想は、朝日は政治権力と損得経営に屈服したというものである。
その論拠を三点挙げる。
第一に、朝日は、必要な場面でも、主体的な「我々」の意見表明をしていない。
第二に、「我々」の代わりに「第三者」の意見を展覧会風に並べ立てている。
第三に、その結果「従軍慰安婦」問題に対しての確固たる姿勢が感じられない。
以下に個別の論調と記事を紹介して私の感想の説明としたい。

 朝日社説は「グローバル時代の歴史 「自虐」や「自尊」を超えて」と題し次のようにいう。(■から■まで。「/」は中略を示す)
■頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。それぞれの国で、「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも、「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまされていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。/東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。/自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい課題だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。■

 これは、従軍慰安婦問題での「誤報と訂正及び謝罪の遅延」を批判された朝日の反応第一声といえるものである。「自分」の歴史認識から「グローバル・ヒストリー」へという方向性の提示は、まことに優等生的答案である。しかし私の見る限りこれは朝日の「転進」声明である。若い読者のために言うと、「転進」は、大東亜戦争のガダルカナル島攻防戦で日本軍が敗北・退却したときに出現した新語であった。
「ナショナル・ヒストリー」と「グローバル・ヒストリー」は二者択一のテーマではない。
国民国家のカベが崩れつつあるとはいえ、この二者の共存こそが、現下最大の課題である。
「ナショナル」と「インターナショナル(グローバル)」は一対の言葉なのだ。朝日新聞が真のジャーナリスト集団であれば、訂正と謝罪が済んだのだから独自の従軍慰安婦報道を開始すべきである。しかし朝日はそこから巧妙に遁走した。

 朝日一面トップは「鏡の中の日本」という続き物の第一回で、ファッションデザイナー森英恵女史の国際市場での奮闘物語である。記事は次の言葉で結ばれている。
■おしゃれは軍服から最も遠い思想である。その分野に、戦後日本はあまたの才能を送り続けている。デザイナーたちはソフトパワーの先駆けとして、自動車や家電とは別の尊敬を、国際社会で勝ち得てきた。政府や企業では得がたい憧れを。個々の胸に宿る、この国への深い親しみを。■
「視点」というコラムで「戦後70年企画」班の担当記者が「鏡の中の日本」に関して次のように言う。
■もちろん、政治や経済といった大構えのマクロの視点で考えることも欠かせない。しかし、今回の「鏡の中の日本」では、あえて具体的な個人のミクロの動きに注目したい。/国際関係は、ひとりひとりの生き方の集積でもある。そのことを今いちど思い起こそう。■
しかし、これは「慰安婦がダメなら個人があるさ」ではないのか。

《「第三者」の意見を客観的に並べ立てる》
 「第三者」の意見を展覧会風に並べている実例を挙げる。
「鏡の中の日本」に対する「世界からのメッセージ」の発信者は、チュラロンコン大(タイ)名誉教授スリチャイ・ワンゲーオ、元駐日カナダ大使ジョセフ・キャロン、芥川賞作家楊逸(ヤンイー)、ベルリン自由大教授イルメラ・日地谷・キルシュネライト、ソウル大副教授南基正(ナムキジュン)。それぞれ良いことを言っている。しかし朝日はどこに立っているのか。

 「オピニオン」欄は、『21世紀の資本』で話題のフランス人経済学者トマ・ピケテイに論説主幹大野博人がインタビューしている。大野は、コメントで言う。ここでも意見は第三者が言うのである。
■「不平等」という言葉の含意をあらためて考えながら、日本語の文章での「格差」を「不平等」に置き換えて見る。「男女の格差」を「男女の不平等」に、「一票の価値の格差」を「一票の価値の不平等」に・・・。それらが民主的な社会の土台への脅威であること、そして、その解決を担うのは政治であり民主的な社会でしかないことが鮮明になる」と結んでいる。■

理屈っぽく言えば、総じて朝日の「主体的な主張」が感じられないのである。
俗っぽく言えば、朝日は「へっぴり腰」なのである。

《読売・産経・毎日・東京》
 長文の読売社説は、「日本の活路を切り開く年に 成長力強化で人口減に挑もう」と題する。小見出しは「アベノミクスの補強を」、「雇用充実が活力の源泉」、「台頭する中国に備えよ」、「欠かせぬ日米同盟強化」である。新自由主義と対米従属を是とする大政翼賛論である。何度読んでも、権力への批判がないから、安倍政権の「タイコ持ち」言説という言葉しか考えつかない。
「若者や女性に多い非正規労働者の処遇改善も欠かせない」と書くが、非正規労働者を減らそうとか、なくそうとは、決して書かない。首相の靖国参拝のような「中国や韓国に対日批判の口実を与える行動は慎みたい」とするのは読売の特色である。
一面左に三段抜きで「東芝カザフに原発輸出」と報じる記事は、「ウラン生産世界一 資源確保に期待」の見出しを従え、原発輸出を肯定的に報じている。

 論説委員長樫山幸夫による産経の「年のはじめに」(社説に相当)は、「覚悟と決意の成熟社会に」と題する。この世紀を生きるキーワードは「自立」「自助」とする。「他者依存」の現行憲法の改正を強く訴え「環境は整いつつある」と述べる。その自立が米国からの自立を含むのかは明らかではない。読売がタイコ持ちであれば、産経は「チョウチン持ち」と言えるだろう。
産経の一面トップは、太平洋戦争の激戦地ペリリュー島(現在はパラオ共和国の一部)の戦いと、今年の天皇夫妻の同島訪問を結びつけようとしている。「時を超え眠り続ける「誇り」」という見出しは、しかし天皇の訪問意図とは大いに異なると思う。昔なら不敬罪に問われよう。

 毎日社説「戦後70年日本とアジア 脱・序列思考のすすめ」は、東アジア諸国が秩序思考に囚われすぎていると批判しそこからの脱却を主張する。EUが、序列よりも並列の意識を定着させた課程に、学ぶべきところがあるとする。共感するところは多いが、秩序思考を近代化論的な量的思考に限定しているのが問題だ。EUではドイツが中心となったのに、東アジアでは日本が中心になるどころか隣国と仲が悪いのは、各国の秩序思考だけが理由ではない。日本が戦争総括という質的思考を欠いたことが大きな理由である。

 東京は、一面トップで「武器購入国に防衛省が資金援助」を報じて軍事用途版ODAになる危険を指摘している。読売の原発輸出報道と対照的である。一面左に、俳人金子兜太と作家いとうせいこうが選ぶ「平和の俳句」を掲げている。元旦に載った一句は18歳高校生の「平和とは一杯の飯初日の出」である。
社説は「戦後70年のルネサンス」と題する。ピケティ、河上肇、ロイド=ジョージ、松本健一、大東亜戦争をキーワードにして、戦時報道の反省を述べ、国民の側に立ち権力を監視し「言わねばならぬこと」をいう責務を持つという決意を述べている。

《天皇の年頭感想・日経とジャパンタイムズ・米系日本人の講義》
 今上天皇の年初感想は全紙が報じている。その見出しを「戦争の歴史を学び考えることの大切さ」(東京。朝日・毎日・日経もほぼ同じ)とした社と、「日本のあり方考えていくこと極めて大切」(産経。読売もほぼ同じ)をいう社とに分かれた。細かいことだが視線の違いが感じられる。

 本紙部分と別刷りの付録は、テレビ番組とスポーツの広告のようなものだが、中では日経のデジタル時代特集がビジネスの現場を知る強みを見せ、その文化欄もレベルが高い。日経本紙の上海株式市場の記事はショックだった。第一の矢による円安で米ドル換算の時価総額は上海が東京の120%になったのである。黒田バズーカは円の安売りである。

 権力の「タイコ持ち」とおとしめた読売の名誉のためにいうと、付録第三部の「2015年注目映画」が良かった。この記事で小栗康平が藤田嗣治を主人公にした『FOUJITA』を撮ったのを知った。小栗はこの作品で日本の近代を描こうとしたと語っている。藤田の壮絶な戦争画を知る世代としては興味津々である。他に『日本のいちばん長い日』(原田真人監督)、『野火』(塚本晋也)、『母と暮せば』(山田洋次)の紹介がある。

 全体を通して文化、読書に関する記事が少ない。そう思っていたら、The Japan Times にドナルド・キーンが書いていた。「日本体験七〇年の回顧」と題して、日本作家の戦中の鬱屈と戦後の解放感、50年代の京都での留学生活、日本の作家や伝統芸術家との交流についてである。2012年に帰化した米系日本人の「講義」に、私は大いに慰められたのであった。

 最後に、経済学者竹田茂夫の「権力の顔」(東京「本音のコラム」欄)の結語部を写して長い今年の読み比べを終わる。
■現政権は日銀総裁に大見えを切らせて、市場の期待を喚起し、政策バブルの株高で国民の支持を繋ぎとめる間に、別のアジェンダに沿って進む方針のように見える。
国民と政権は互いに歪んだ姿を写し合う二枚の鏡なのだ。国民の大多数には政権の素顔、危険な国家主義は隠されている。現政権には株で小ガネを稼ぐ一方で、子孫に原発汚染を残し、非正規層を差別し、沖縄を犠牲にして顧みない、われわれ日本人の顔がデフォルメされて映し出されている。■
(2015/01/01)

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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