「選択的夫婦別姓」の今後―「戸籍」制度そのものの再検討(その2)

日本人にとっての「戸籍」制度
 今でこそ、「結婚」に際しての「入籍」という言葉や、「姓(法律的には「氏」だが、ここでは「姓」を用いる)」を「一つにする=大方は夫の姓に合わせる」という日本のしきたり(制度)に関する疑問を抱いている私自身、学童期から大学時代までは、この「夫婦同姓」という慣習(制度)にすっかり馴染んでいたことを思い出す。
 最初は、小・中学時代。クラスやクラブの中で、「好きな男の子」ができると、決まって相手の姓に自分の名前をくっつけて、ノートの端っこに書いてみたりした。
 松本祥子、有住祥子、井川祥子・・・バランスがいいか、うまく馴染むか、そんなことが気になっていたのである。
 それでも、「結婚と姓」の問題に、より具体的に出会ったのは、大学4年の時である。1年先輩の「結婚を祝う会」の席上、「新婦」である先輩がいきなり「抗議の演説」を始めたのである。
 彼女の同じ学年の友人たちは、男性も女性も、すでに彼女の「拘り」や「不満」を日常的に聞かされていたためであろう、少しも動じる気配はなかった。共感する友人たちは「そうだそうだ!」と拍手をしていたし、逆に、少し疑問を抱いている友人たちは、「またか・・・」という感じで首を傾げていた。
 今から思えば、私は何と迂闊だったのだろう、「結婚と姓」の問題に少しも疑問を抱いていなかったし、先輩の怒りや抗議に、目をシロクロさせているだけだったのだから。
 ただ、その後、改めて日本の「戸籍」について歴史的・理論的に学んだり、また私自身の人生における「結婚」「離婚」その後の「事実婚」などの経験からも、日本の「戸籍と結婚」の問題の独自性とその歴史的な根深さを感じ取ったりもした。
 今では周知のことだろうが、元々「戸籍制度」は中国が発祥地である。それが朝鮮、日本そして台湾へと広がっている。しかし、歴史的・典型的な戸籍制度を継承しているのは、現在では日本だけである。
 隣の韓国では、女性差別の歴史的あり様の違いから、男女異なる「姓」のままの戸籍制度を、つい最近まで継承してきたが、2008年元日に廃止している。(また、「出身成分」というもので何段階にも区分されているという北朝鮮のことは、ここでは除外する。)
 以上のような状況を見ながら、2016年、マイナンバー制度が日本にも導入されるに当たって、私は、「今こそ、日本の戸籍制度は廃止されるべきではないか、個人単位の〝マイナンバーと(家族)情報”が整備されれば十分ではないか」と考えたものである。
 しかし、一方で、「いや、日本に唯一残されている戸籍制度は、(それだからこそ)歴史的にも希少価値があり、〝集団的なまとまりとしての家族”を保障する意味のある制度なのだ」と考える自民党内意見の根強さ・しぶとさをも同時に感じとってしまった。
 私たちの誰もが、生まれてから共に暮らす「家族」のあり様と、その社会的制度の仕組み。生活の中で「当たり前」なものとして血肉化されている「戸籍」というもの。それのどこが、どのように問題を孕んでいるのか・・・ここで、じっくり、みんなで考えていくことが必要なのだろう、と改めて思い直している。
 つまり、この問題は、単に「選択的夫婦別姓」に賛成か、反対か、を問うアンケートの集計結果に一喜一憂するような問題ではないのではないか。いま少し、私たちの生活と「夫婦・親子」の関係に根深くかかわる重要な問題ではないか・・・と考えるからである。

「旧姓の通称使用」の安易さ
 民法750条の「夫婦は・・・夫又は妻の氏を称する」の規定によって、戦後日本の夫婦は、結婚に際して、必ず「姓」を一つにするのを当然のことと思わされてきた。しかも、男性主導の家父長的「家」制度の延長上に、また、私の拙い思いこみにも沁み込んでいた通り、男(夫)の姓を以て夫婦の姓とされてきたのである。
 もちろん、その前提には、戦前の「家」制度による「嫁取り婚」の歴史と風習が、暗黙の裡に戦後の民法にも反映されていたことになる。つまり、特別な「婿養子」のケース以外は、結婚とは「女の嫁行き」であり、夫側の「家」に「嫁ぐ」ことであった。夫の家側からすれば、結婚とは「嫁取り」であり、できるだけ「家風に合う嫁」が期待されたことだろう。女の子の憧れの的だった、花嫁衣裳の「白無垢」姿は、先方の嫁ぎ先の色に「丸ごと染め上げられること!」への承諾の意思表示であったことは、言うまでもない。
 戦後まだ間もない頃、今から思えば世の中はあまりにもノーテンキである。女子の教育は疑うことなく「家庭の主婦」養成をメインとした。そして、進学率の上昇を先取りして、女子の大学の主流は「短期大学」と想定され、多くの短期大学が設立された。そして当然のように、短期大学の主な学部・学科は「家政」と「文学」。そこでは、家庭の「主婦養成」がごくごく当たり前の内容とされた。短大を卒業してすぐの「結婚」もあれば、2,3年会社で働いた後、「社内結婚」あるいは「お見合い結婚」と続き、中には、会社の仕事を中途で放り出しての退職も、「寿退社!」として花吹雪でもって祝われた。
 こうして、「結婚」を前提とした20代初めから20代半ばの女子にとって、結婚してからの「姓」こそ本命!それまでの親の家の姓は、「旧姓」として、未練なく捨て去られたこともよく分かる話ではある。
 しかし、高度経済成長時代を経て、進学率の上昇、女子の大学進学も進み、女子の就労も「嫁入り前の腰掛」ではなく、「自分の仕事」として本格的になり、それだけに専門化や長期化も進んでいく。それに合わせて、結婚も20代後半から30代、40代へとずれてしまうケースも出てきた。いわゆる「晩婚化」である。
 自分の仕事や専門性を維持している女子にとって、いざ結婚するに当たって、それまでの「姓」を変える、というのはあまりにも理不尽である。なぜなら、研究職の場合は、「姓」が違えば「同一人物」とは認められないし、企業に勤めている場合には、「姓」が変われば、仕事相手に混乱を生じさせ、結局は「仕事の継続」を保障する信用問題にもなってしまうからである。
 こうして止む無く採用されたのが「旧姓の通称使用」である。人によっては、これまでの旧姓を表に出して、結婚によって新たに称することになる「戸籍上の姓」をカッコに入れて併記する場合もあり、あるいは、やや控えめな形としては、結婚姓(夫の姓)を表に出し、元の旧姓をカッコにいれて併記するというのもある。
 国としては、「戸籍」の意味合いを壊しかねない「選択的夫婦別姓」よりは、この「旧姓の通称使用」の方が「安直」で「無難」と判断したのかどうか・・・、マイナンバー制度導入の2016年から、「公的証明となるマイナンバーカード、住民票および運転免許証に旧姓併記」を認めることになった。しかも、この年、「旧姓併記」を可能にするシステム改修に175億円が支出されたのだという。
 しかし、前回紹介した経団連の提言(2024.6.10)にも指摘されているように、「旧姓の通称使用」は国内・国外でのトラブルを起こしやすい。
 パスポート上の二つの姓(一つはカッコつき)併記は、理解されず混乱を招きかねないし、また、旧姓でのビザや航空券の取得は原則不可である。金融機関も、システム改修にどちらかと言えば消極的であり、不正防止のためには否定的ですらある。さらに、国内でも、公的な行為・書類(納税、資格・免許の名義、社会保険や年金、法人/役員登記)では、旧姓使用は不可である。
 さらに、「一人っ子」同士の結婚に際しては、妻の「通称使用」では、妻側の「姓」の正式な継承にはならない。
 だとすれば、この先、どうする?
 経団連は、現実の諸問題ゆえに「旧姓の通称使用」を見限って、「選択的夫婦別姓」へと舵を切ったのだが・・・しかし、岸田文雄首相の度々の発言に見られるように、自民党の中には、「家族の一体感」や「子どもの利益」のために、「夫婦=家族同姓」の現行制度に固執する勢力は少なくはない。
 実際にも、2021年3月20日の政府の「第5次男女共同参画基本計画」から、「選択的夫婦別姓」の文言は削除されている。どれほど不都合があろうとも、自民党(もちろん強固な一部分)としては、「旧姓の通称使用」の拡大で、事を済ませようとしているのであろう。

「選択的夫婦別姓」制度の問いかけるもの・課題
 とはいえ、2024年5月1日実施のNHK世論調査では、「選択的夫婦別姓」に対する賛否の結果は、賛成 62%、反対 27%となっている。
 その後続いて実施された7月、朝日新聞の世論調査では、賛成73%、反対21%と、その差をさらに大きくしている。しかも、自民党支持層に限っても、賛成が64%にのぼったという(2024.9.2)。
 ただし、このような「選択的夫婦別姓」についての世論調査上の多数派!という事実そのものも、答える側の年令や「既婚か未婚か」という実状によって、すでに「他人事」であったり、近い将来の「自分の事」としても、「選択的」という修飾語のために、「嫌ならば同姓にすればいい」という安易な留保条件込みの「賛成」なのかもしれない。
 また、度々参考に出される、1996(平成8)年の法制審議会の答申(「民法の一部改正」)では、「選択的夫婦別姓」制度下での「子どもの姓」については、
①  結婚の際に、あらかじめ子どもの姓を決めておく。
②  子どもは全員、「同じ姓」を名乗る。
という「取り決め」が提示されている。
 にもかかわらず、法務省民事局の調査(2022年3月)では、「選択的夫婦別姓」の子どもへの影響の有無について、
 好ましくない 69.0%  影響はない 30.3%  無回答 0.89%
という結果となっている。
 「選択的夫婦別姓」の制度下でも、すでに記したように、「子どもは全員同じ姓を名乗る」という「取り決め」が示されているにもかかわらず、この「取り決め」が周知されていないのかもしれず、また、それを「承知」している人々も、「同じ家族なのに、子どもたちとお父さんの姓が違う」あるいは「同じ家族なのに、子どもたちとお母さんの姓が違う」ということに、戸惑いや違和感が生じているのかもしれない。
 表面的には、「選択的夫婦別姓」は、すでにトレンドとなり、「夫婦同士で自由に選べばいいのでは?」・・・という至極「もの分かりのいい」風潮になっているようではあるが、意外に社会の基層では、「家族」とは「両親・親子の水入らず=一体的・共同的な家族」という感覚が、根強く残り続けているのではないのだろうか。
 「戸籍」という枠の中に、筆頭者(世帯主)を中心として束ねられている「家族共同体」。確かに、がっしりとした「家族」のまとまりは感じとれるのかもしれないが、果たして、そこに、夫と妻の相互の自立と協力と親密性、父親と子どもの双方の自立と愛着と配慮、同じく、母親と子ども双方の自立と愛着と配慮、が意識的に育まれ大切にされているのだろうか。
 「選択的夫婦別姓」が、今後どのような経緯を辿るのかは未だ予測はつかないが、
ただ、「家庭内暴力(DV)」「児童虐待」「毒親」等々をめぐる事件や問題が多発している現在、私たちは、「家族」という「矛盾なき共同性」という既成観念をいったん外して、「夫婦」や「親子」の、個々の「自立」と「親密性」を、もう一度「振り出し」に戻って、じっくりと考え、そして、実際に「つくり変える」必要があるのかもしれない。

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