「Yes,Nike」「No,DHC」 ― ナイキのキャパニック起用に拍手

これは快挙だ。米スポーツ用品大手のナイキが、新広告キャンペーンのイメージキャラクターに、渦中のNFL選手コリン・キャパニックを起用した。キャパニックといえば、米国の黒人差別に抗議して国家への敬意表明を拒否したスーパースター。国歌斉唱中に起立せず、片膝を付く姿勢(Take a Knee)をとり続けた叛骨の人。その影響力から、俗物トランプとその取り巻きのバッシングを一身に受けて、一歩も引かない人物。今や二つに分かれたアメリカの、理性の半面を象徴する立場となった。

このキャパニックを指して、「国旗を侮辱した人がいた時に、『あのバカ者をフィールドから降ろせ。あいつはクビだ! あいつはクビだ!』とNFLのオーナーが言うのを聞きたいと思わないか?」と演説したのが、ドナルド・トランプという保守派のポピュリスト。アメリカの暗愚の半面を象徴する人物。

アメリカは広い。懐は深い。愚かなトランプ支持者だけがアメリカではないのだ。キャパニックやこれを支持するナイキが、もう一面の別のアメリカを構成している。ナイキのキャパニック起用は、この二つのアメリカが衝突するテーマ。それだけに、ナイキの並々ならぬ決意が窺える。

今回ナイキが発表したキャンペーンの画像では、大写しのキャパニックの顔写真に、“Believe in something, even if it means sacrificing everything”というメッセージが添えられている。我流で、「信じよう。たとえ全てを失っても守るべきものがあることを」と訳してみた。そのsomethingとは、自らの信念に忠実であることの価値、あるいは人種や民族や宗教や言語の差異を超えて人はすべて平等であるという信念、であろう。国家や社会の圧力に屈することなく、たとえ非難を受け、職を失っても、自己の信念に忠実であれという刺激的メッセージ。このキャパニックとナイキの心意気を素晴らしいと思う。

消費者とは、品質と価格だけで商品選択をする存在ではない。少なくも、自覚的な賢い消費者は、市場での商品選択を通じて、社会をよりよいものとする努力をすべきなのだ。ナイキが、人種や民族の平等の価値を意識的に自らのブランドとしているのであれば、人間の平等の実現に賛意を表する消費者は、ナイキの商品を積極的に選択しなければならない。

一方、その正反対に民族差別を公言して恥じない経営体であるDHC・吉田嘉明などの商品を買ってはならない。DHC商品を買うことは、社会の差別を容認し助長する恥ずべき行為なのだ。もちろん、DHCの問題性は差別だけではない。デマとヘイトとスラップとで3拍子揃った反社会性、これに政治家への裏金問題を加えればグランドスラム。「買ってはいけないDHC」「良い子は買わないDHC」なのだ。

ところで、キャパニックの行為は、国家に対する敬意表明の拒否であり抗議でもある。キャパニックの信ずるものは、人の平等という前国家的な価値である。白人も有色人種も同じ尊厳をもつ人間として、国家から平等に扱われなければならない。ところが、米国という国家は、この価値を貶めているものとして敬意を表明するに値しないのだ。極めてわかりやすい。

これに対して、キャパニックの行為を非難する者たちの理由や根拠は分かりにくい。敢えて言えば、国家というものの神聖性というしかない。国家とは、人種差別をしようが、他国を侵略しようと、国家であるだけで神聖であって国民はこれに敬意を表明することが当然で、国家への抗議などもってのほかなのだ。これは、一神教の神に対する信仰以外のなにものでもない。

キャパニックの行為を非難するアメリカの半分は、国家の神聖性という信仰をもっているのだ。トランプを初めとする多くの人々の、知性と理性を投げ捨てた、暗愚な精神に棲み着いた信仰。そう、かつての大日本帝国の時代に、天皇を神として、ご真影や「日の丸・君が代」に、盲目的な敬意の表明を強制したあの時代のごとくに。

日米とも、今なお国家至上主義の信仰と闘っている、理性の人々がいる。星条旗に抗議する人々、「日の丸・君が代」起立斉唱の強制を受け容れない人々に、深く敬意を表する。彼らは、「it means sacrificing everything」を覚悟して、「Believe in something」の姿勢を貫いているのだ。
(2018年9月6日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.9.6より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=11037

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