「 現代にも鳴り響いている「地獄への道は、善意で舗装されている」という警鐘!」

著者: 大木 保 おおきたもつ : 心理カウンセラー
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善意・配慮 =法制化で、国民の個の自由がまた一つ奪われる!・・

— — もう、何をいっても上の空の、離人症の様相をあらわしている日本の政権ですが、
なかでも 「個人の救済や景気回復」の思想・ビジョンがまったく欠落していることが致命的で、
それゆえに、救済も回復も被災のとき以来いまだに何も成しえていない惨憺たるありさまです。
懸命にやるべきことを放置してだれも責任を取らずに、
子どもじみた領土合戦などにつきあったりしています。
もっとも今の政権には、アラブ諸国のようにしたたかに世界外交をめざす力量などもちあわせないので、
幼稚な軍事オタクや口先政治屋の挑発とマスメディアの煽動につきあう程度が性にあっているようだ。
この国のエライ連中がいつまでたっても成熟をしらない、お子ちゃま族であふれかえっているということは
もし仮に、かれらが傀儡として、それぞれのアクターとしての役割を演じているのでなければ、
頭の中の概念性はすでに喪失していて、
好き嫌い(恣意性)、強迫性などにのみ反応する病理的機序をあらわしているようにおもわれる。・・・
さてそんな日本とはちがって流血のなかにある “アラブ騒乱” についてみてみると、
連鎖する「アラブの春」などとPRしているのはアルジャジーラと欧米および日本のマスメディアである。
しかし先のエジプトやチュニジアの民衆の革命運動である「アラブの春」の場合は、
前政権がまぎれもなく欧米覇権主義の傀儡であったこと、それの打倒にある。
だがこんどは、リビアのカダフィ前政権同様、
アサド・シリア政権はつねにシオニストや欧米覇権主義に対して抵抗をえらんできたものであり、
国民から圧倒的な支持を受けており、けっして国民から追われるような立場にあるはずもないのである。
したがってシリアで起こされている「反政府勢力のたたかい」というのは、
一連のアラブ騒乱に乗じただけの、リビアにつづく、欧米覇権主義の「帝国主義的強奪行為」とよばれるべきものである。
そしていよいよ破壊工作を激化させている欧米覇権主義勢力は、周到に
世界中の系列メディアを総動員して、アサド・シリアに対するメディア謀略PR戦争を仕掛け、
アサド・シリアを孤立させ、「極悪非道の悪党」としてフレームアップすることに成功しつつある。
現在は、このあとの傭兵部隊の侵攻のタイミングをはかっているところである。
シリアの市民のメッセージが次のようにつたえられている。–
「わたしたちの国でいま流されている血は、
自分の国の尊厳と大地をまもるために抵抗することをえらんだ者の血なのです。」–
仮にこんな苦境に陥ったときに、日本の国のエライ連中や威勢のいい口先お坊ちゃまたちが
こんな肝の据わった言葉を世界にメッセージできるとはとてもかんがえられません。・・・
— 残念ながらこの国では、成熟とは真逆で
ものごとの概念をおろそかにしてかえりみず、その本質から目を逸らそうとする、
いかにも日本人的で、感傷的な「思いやりや、配慮」というものが無条件に優先されてきました。
それをとりこむときの権力はしたたかで、
つねに「法制化」あるいは「記念日化」という換骨奪胎の仕組みをくぐらせ、
所期の意義さえなし崩しにし、 いつの間にかトリックにかかったように
反対に個の自由を取り締まる条例化に変質していたり、あるいは
責任所在の曖昧化を謀った記念日セレモニーなどとなって、国民の前に登場してくるのは
歴史がしめすとおりである。
たしかマルクスの資本論からひとり歩きした警句のようだが –
– 「地獄への道は、善意で、舗装されている。」という認識はたしかに言い得て妙であろう。
とくにいまだにナルシスティックなセンチメンタリズムをかかえている日本人にたいして、
ぴったり適合する警句であるといえる。
とはいっても、「自分とは関係ない!」と おそらくピンと来ない「善意の」人がほとんどだろうが、・・
それこそがこの警句のもっている深い意味合いを証明することになっている。
このように、
「ものごとの概念をおろそかにしてかえりみず、その本質から目を逸らした」善意の行動や訴えは、
そこで語られるすべての感傷的な「言葉」が、曖昧なゆえに
権力にとって都合のいい、組みしやすい相手に映るのは自明といえよう。・・・
しかし日本的感傷からはるかに遠く、現代世界を席巻しているという意味では
おそるべき権力でもあるグーグルやヤフーの、web上のキイワード検索をうかがってみれば、
そこにおける一貫した究極の資本主義の思想性・世界観は、
人気度(クリック数)と文字数量(コンテンツ量)だけを尺度とみなす、
すべてのものごとを< 商品コード化> するための「過剰にのっぺらぼうな平等と公平性」の世界なのである。
(そののっぺらぼうな平等と公平性の下でも、当然だがそこには、
資本の論理が圧倒的に貫徹しているのだが、いまはそれはおくとしよう。)
ここでは感傷的な善意や配慮どころか、
他者のメッセージや意見の「内容や価値」がまったく無視・排除するしかないことこそが、
何より重要で、見のがせない根源的な問題だと指摘しておきたい。
すなわち、どこまでも恣意的で!、どこまでも相対的な!(逆にいうとなんでもアリ!)
究極的にはほとんど「意味を喪失した(概念が成り立たない)」記号的な言語観の世界がのこされるだけになる。
つまりわたしたち個の存在や思考、行為というものが端から無意味化され、排除されている世界ともいえる。
善意の日本的感傷をかかえたひとたちもまた、はたして 知らない間に
この相対化、無意味性の世界に馴らされてきていることに気づくときが来るのだろうか? ・・・

(ブログ・心理カウンセラーがゆく!http://blog.goo.ne.jp/5tetsuより 転載.)