「評論」での『スラッファ』に関する岩田氏と〈ブルマン〉氏の議論のなかの、「価値形態論を生産手段の交換から始めることに意味があるかどうかということ」に関して、拙著『スラッファの謎を楽しむ』の該当箇所を、12月17日に「スタディルーム」に掲載していただいた(https://chikyuza.net/archives/5195)。その際に、「これが生産手段の交換に着目した貨幣の必然性である注。」とした文章の、「注」の部分がどこからどこまでなのかが不明となってしまい、読者にご迷惑をおかけしてしまった。以下に「注」の始まりと終わりを明示して、お詫びしたい。
なお、両氏の議論の対象となった問題については、その議論に立ち入ることは控えたい。上述の12月17日の「スタディルーム」に掲載された抜粋を読んでもらえばいい。そして、もしその上でこの問題について考えてもらえるならば、『スラッファの謎を楽しむ』の書き手として、これ以上嬉しいことはない。
(注:はじまり) なお、ここで必要なのは価値物としての貨幣ではないことに注意する必要がある。価値物という概念には貨幣自体が一定の使用価値を持っていることが含意されるが、交換手段・度量標準としての貨幣はそれ自身が使用価値を持つ必要はない。
貨幣は歴史的には金あるいは銀という貴金属としての使用価値をもつ生産物があてられたが、それは「商品による商品の生産」が確立するはるか以前から、存在したものである。そうした前資本主義的貨幣が資本主義社会でも貨幣として使われたのは歴史的事実であるが、その歴史的事実は、貨幣は貴金属でなければならないという論理的必然性を与えるものではない。「商品による商品の生産」が確立している社会で貨幣に求められるものは、「それによって何でも買うことができる」ということだけである。そして金銀といった貴金属がその要件を満たしていたというだけのことである。
貨幣自体のなかに価値を認めたならば、結局は、「商品の価値をそれ自身で決定する」危険性に陥ることを忘れてはならない。(注:終わり)
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