お久しぶりです。中野@貴州です。
ようやく張一平氏の『フーコーへ帰れ』の翻訳が終わりました。
フランス語もフランス現代思想もまったくの門外漢の私めにとっては、一種の苦行だったと言ってもよいでしょう。第一、これまでの私めは、あの「わかりきったことをわざと難しく言う」という、「おフランス」特有のスタイルには、ただただ反発しか覚えていなかったのです。日本語教師として、学生があんな調子の日本語作文を書いて来たら、「くどい!」とコメントして突き返したことでしょう。
ところが、翻訳を進めているうちに「面白い」と感じるようにとくになりました。とくにフーコーの「人間(なるもの)は近代の産物だ」という「ひねくれた」思考に注目するようになったのです。この思考は、構造主義時期のフーコーにもポスト構造主義の時期のフーコーにも(このような時期区分が許されるならばの話ですが)首尾一貫として流れていた思考ですね。
この時、私めは、フォイエルバッハに対するシュテルナーの批判、そのシュテルナーに対するマルクスの批判を思い出しました。つまり、以下のような2つの流れがパラレルになっていると感じたのです。
1、フォイエルバッハの「抽象的人間」→シュテルナーの「唯一者」による「抽象的人間」への批判→マルクスの「社会関係の総和」による「唯一者」への批判。
2、西欧近代の抽象的ヒューマニズム→実存主義の抽象的ヒューマニズム批判→構造主義の実存主義的ヒューマニズム批判
『歴史は繰り返される』というのは哲学においても言えることなのですね。
後は編集・出版を待つだけです。
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〔opinion6882:170821〕