『九州大学生体解剖事件』を読む~スガモ・プリズンの歌会にも触れて

1月26日の森友学園問題を考える会主催の「院内集会」の折、出会った森友学園の地元豊中市市議の熊野さんから著書『九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実』(熊野以素著 岩波書店 2015年4月)をいただいた。

そこで展開される事実は、不勉強で、知らなかったことも多く、胸の痛む思いで読み進めた。1945年5月、九州大学医学部が「実験手術」の名のもとに、米軍の捕虜8人が、生体解剖の犠牲になった事件で、それにかかわった医師、鳥巣太郎についてのドキュメントである。戦後に行われた「横浜法廷」で、その首謀者の一人として死刑判決を受けたのだが、4回行われた「実験」に2回かかわったことで、極刑を言い渡された鳥巣が、その「実験」に抵抗し、回避をしてきたことを知っている妻が、判決の理不尽と戦った記録である。膨大な裁判記録や再審査資料、関係者の証言を駆使しての労作であった。

著者の伯父鳥巣太郎一郎・蕗子夫妻、鳥巣の苦悩、蕗子夫人の奮闘の軌跡がたどられる。夫人が苦労して書いた嘆願書が検察側の資料となる経緯、西部軍、九大側の隠蔽工作、サイデル弁護士の証言工作などが明らかになる過程、時には裏切られながらも、協力者を得てゆく過程が克明に描かれる。再審査の結果、死刑は10年に減刑されたのだった。

    そして私が何よりも思いがけなかったのは、鳥巣太郎が短歌を詠んでいたことであり、それが、<戦犯歌集>と呼ばれた『巣鴨』(第二書房 1953年9月)に収録されていたことだった。
この歌集の「序」を鹿児島寿蔵と並んで書いていたのが阿部静枝であった。静枝は、私の母と私が師事した『ポトナム』の歌人だった。1960年代、『ポトナム』の東京歌会に参加していた頃、歌集『巣鴨』については、聞くともなく聞いていた。阿部静枝は、『女人短歌』、『潮汐』、『ポトナム』の同人たちとともに、巣鴨拘置所内での巣鴨短歌会に出向いて短歌の指導に当たっていて、その成果の一つが、この歌集であった。時を経て、知人から譲り受けた『巣鴨』を通読はしていたが、鳥巣太郎が九州大学生体解剖事件に関係する医師だったとは知らなかった。静枝は、戦前から池袋の西口、二丁目に住み、我が家も大正時代から一丁目で店を営んでいて、巣鴨拘置所へは、東口ながら歩いて行ける距離であった。1970年まで拘置所だった、その跡地には、1978年にサンシャインビル60が竣工、当時は、その高さはアジアで一番を誇っていたのだった。巣鴨拘置所は、私の生活圏のなかにあった。

阿部静枝は、その「序」において、「有刺鉄線の境界、アメリカの旗がひらめくその上の空、敗戦国を見下している監視塔があるスガモ・プリズンは、戦争の抽象として、人間不幸の具象として、私の感情を締め上げる場所であった。・・・」と書き起こし、講和条約締結後は、面会の制限が幾分緩やかになり、集団面会の形で歌会が持たれたという。さらに、当初は、戦争への憎悪、悲運への忿怒、孤独の狂いが歌われていたが、次第に、透徹した祈りが底流となった、とも述べている。

鳥巣太郎の「孤心」と題する50首の中から10首を選んでみた。

・郷愁のひたにせまれば少年の頃のわが村地圖に描きをり(愁翳)
・つぎつぎに売り細りゆくわが家のせまれる生活(くらし)今日は告げ来し
・何事も死が解決するといふことを我はうべなはず生きゆかむとす
・死に就きし友の監房に入りゆけば鉛筆書きの暦のこれり(訣別)
・口數の少きままにひたぶるの眸はわれに向けをりし子よ(面会)
・永らへし命思ひぬ秋づきて朝はすがしき窓に佇ちつつ(蟋蟀)
・咳をするも一人とよみし山頭火おもひ出でつつ臥床をのぶる
・秋の陽の寂かに照れる廣庭にわが出でしとき眼(まなこ)眩みぬ(命生きて)
・ある時はわれのみを人らが目守りゐる心地覚えて護送車にゐる
・講和調印終りし今朝も平凡に護送車の中にうづくまり居り

 

鳥巣には、『ヒマラヤ杉』(1972年)という歌集もあるという。また後年、上坂冬子とのインタビューでは、事件当時の九大医学部の医局員は一体どうすればよかったのかを尋ねられて、「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・ともかくどんな事情があろうと、仕方なかったなどというてはいかんのです」と答えたそうだ。著者の熊野さんは、「最終章」で書かれている(189~190頁)。

初出:「内野光子のブログ」2018.02.12より許可を得て転載

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