『創造的自由』(昭和史 最後の砦についてのこだわり)
水木しげる氏、93歳死去が伝えられた。原節子に続く。
昨年は、高倉健、菅原文太と続いたビッグスターの死。
昭和が刻一刻と終わりを告げているのだ。
猶予がないのは、白土三平氏と『カムイ伝』第三部の行方である。
スパイ映画復興の中にあって、忍者につながる、時代劇につながる疑似体験性、前歴史性の刻印たる展開と文学のあり方は、一手に、『忍者武芸帳 影丸伝』から『カムイ伝』の展開の中にあった様に僕は、感じられている。
戦国時代と明治維新を交互に描いていると言われる「大河ドラマ」更に、「朝ドラ」の量産、それは、「戦隊シリーズ」「仮面ライダーシリーズ」の展開にも符合する「ドラえもん」「サザエさん」化する日常であり、どこから切っても金太郎飴の量産化の中にあって、未完の文学の完結を求める、昭和そのものの完結としての意味を持っている様にも感じられる。
漫画・劇画界の巨星は、手塚治虫、梶原一騎、石ノ森章太郎、そして、水木しげる、その中にあって、白土三平氏と『カムイ伝』は、最後の砦として残されている昭和そのものであると言えるだろう。
「終わり良ければすべて良し」か。
昭和文化史との関わり。最後の砦たる『カムイ伝』の問題構制を踏まえながら、具体的なる人性哲学の完成を問う。
その意味での『創造的自由』論であるはずである。
人生は、短いのか長いのか?
終わりが近づけば、瞬きをするように、一瞬、刹那であったと考えるかも知れない。
10代の頃は、長く退屈なものの様にも感じられ、年を追うごとに短く感じられていくのではないだろうかとどこかの本で読んだ様な読まなかった様な、そんな話をしていた様な気がしていた記憶の中で、繰り返し問われていたものが何であったのか?
その問いである。
創造性や自由以前の問いが、『聖書』であったり、『存在と時間』であったりしていたのだろうか?
はたまた、『人間臨終図巻』と「死」に関わる問いは何であったのかの個人的創意(モチーフ)、主題(テーマ)として、人性があった故に、大河としての物語の創造としての『聖書』の魅力とパースペクティブ(遠近性)としての日常空間たる『存在と時間』の問いの問題、更に、具体的に、日本的であり、昭和史的な展開としての「個と文化」としての現在性、回想性としての問いが、『創造的自由』そのものの問題意識として、問われ、更に、言い当てられねばならない文学、哲学上の共通なる課題であるのではないだろうか?
宇宙の摂理、自然の摂理に対してちっぽけな人間の思惑などどうでも良いものであるに違いない。
それでも、葦は、あるのだ。
残虐なる前史、江戸時代から近代史、そして、昭和史への関わりとして、「ちきゅう史」を盛り込んでいく試みが、『カムイ伝』『神話・伝説シリーズ』の試みの中に備わっていたのであり、多くの重複部分が、ある故に、そのドラマを題材に仕上げられるものがあった様に感じる。
今だ平成年間の悪夢、地獄、貧困を問わない。それは、『第三部』の展開であるだろう。
愚かなる安倍政治などに関わっている猶予は本来、全くないのである。
続く