<登場する短歌作品>
私が、解題篇を読んで、やはり気になったのは、短歌や和歌が「国策紙芝居」にどう登場したかであった。
➀「風流蜀山人」(鈴木景山脚本 石原徴絵 1941年8月1日)
・色白く羽織は黒く裏赤く御紋はあをいきいの殿様
・唐人もここまで来いよ天の原三国一の富士を見たくば
短歌ではないが、狂歌師の太田蜀山人にまつわる小噺で、何首かの狂歌もが紹介されている中の2首を記した。1首目は、紀伊の殿さまにまつわる狂歌であり、2首目は、中国を意識した時局を反映したものだろう。
②「楠木正行」(平林博作 西正世志絵 1941年9月25日)
・かへらじとかねて思へばあずさ弓なき数にいたる名をぞ止むらん
南朝の天皇への「忠孝」を誓い、この「忠魂」は世の若人に「道を教え、励ましを与えて」いると結ばれている。ここに、登場する後醍醐天皇の声は聞こえるが、その姿は雲のなかであって、姿は描かれていない。
③「忠魂の歌」(大日本皇道歌会編国民画劇研究会脚色・絵 1942年5月31日)
・海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草むすかばね大君のへにこそ死なめかへりみはせじ
萬葉集収録の大友家持作が読み上げられ、「尽忠報国。まことに、皇軍勇士の亀鑑たる鈴木庄蔵軍曹のお話であります」ではじまる。「海ゆかば」は、国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年に作曲したものだが、下の句の「天皇のそばで死ぬのだから、決して後悔はしない」とのメッセージが重要なのだろう。主人公の鈴木庄蔵は、東京羽田で父と漁師をしていたが、出征、1938年10月、中国、徳安城攻撃で重傷を負う。臨時東京第一陸軍病院での入院生活で短歌を看護婦の勧めで始めるが、1940年8月10日に没する。臨終の際に、次の一首を詠むに至るストーリーである。
・半身は陛下のみために捧ぐれどいまだ半身われに残れる
作中には、ほかに、次のような短歌が挿入される。
・大場鎮突破なしたるその時は隊長も兵も共に泣きたり
(靖国神社権宮司 高原正作揮毫)
・わが體砲煙の中にくだくとも陛下の御為なに惜しからん
(明治神宮権宮司 中島正國揮毫)
なお、鈴木の作品の内、危篤から臨終までのの遺詠が70首あるといい、そのうちの21首が『白衣勇士誠忠歌集』(由利貞三編 日本皇道歌会 1942年3月)に収録されている。また、編者の由利の解説に拠れば、1941年5月26日皇太后(貞明皇后)訪問の折、「戦傷勇士」5名12首を献上したと記す。鈴木の4首が一番多く「半身は」のほか以下3首も記されている。
・吾が身をばかへりみるたび思ふなり陛下のみためいかに盡せし
・傷おもきわが身にあれど大君の股肱にあれば元気かはらず
・陛下より恩賜の煙草いただきて我はすはずに父におくりぬ
④「物語愛国百人一首」(納富康之脚本 佐東太朗子絵 斉藤瀏題字 1943年8月20日)
「愛国百人一首」は、日本文学報国会が、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、土屋文明ら12名の歌人を選定委員として、「尊王愛国」を喚起するカルタの普及を目指して作成し、内閣情報局が1942年11月20日に発表した。協賛した東京日日新聞、大阪毎日新聞はじめ、短歌雑誌はもちろん、主婦や子供向け雑誌などでも鑑賞や評釈が盛んになされた。この紙芝居では、百首の中から20首近くを紹介、その中には、前掲、大伴家持の「海行かば・・・」、楠木正行の「かへらじと・・・」などを含む次のような短歌が次々と紹介されてゆく。
・しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花
(本居宣長)
・皇(おほぎみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に盧(いほり)せるかも(柿本人麻呂)
・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂
(吉田松陰)
・御民吾生ける験あり天地の榮ゆる時に遇へらく念へば
(海犬養岡麻呂)
題字を揮ごうした斎藤瀏は、選定委員の一人でもあり、「心の花」同人で二・二六事件に連座、反乱幇助罪で入獄。出獄後は「短歌人」を創刊、太平洋戦争下では、戦意高揚短歌を数多く作り、「短歌報国」にまい進した。斎藤史の父でもある。
<描かれなかった天皇、登場する天皇の短歌>
『国策紙芝居から見る日本の戦争』における論考篇の中で、もっとも関心を寄せたのは小山亮「国策紙芝居のなかの描かれない天皇―神奈川大学所蔵コレクションから」であった。紙芝居の絵の中で、「描かれることがなかった天皇」―脚本には言及がありながら、図像には決して描かれなかった天皇について、各作品の絵と脚本とを照合しながら丹念に検証した労作である。身体の一部が絵になりながら、顔や全体像は見せなかったり、雲の上に存在を思わせながら姿を見せなかったりする紙芝居の中の天皇の存在が「御真影」との関係、他のメディアとの差異など、何を意味するのか、興味深く思われた。私は、それを読みながら、それでは紙芝居に登場する天皇の短歌はどんな場面で登場し、どんな作品が選ばれているのかを、探ってみたいと思った。制作年月日順にみてみよう。
➀「大政翼賛」(日本教育紙芝居協会(作成)1940年12月30日)
1940年10月12日の大政翼賛会が成立の直後から制作にかかったのだろうか。当時の標語「なまけぜいたくは敵」「公益優先」などの羅列と解説に終始する作品で、が引用されるということで、最終場面<臣道実践>の文字と二重橋の絵の台本に、1904年の明治天皇の短歌が記されている。
・ほどほどに心をつくす国民のちからぞやがてわが力なる(明治天皇)
②「戦士の母」(日本教育紙芝居協会脚本 西正世志絵 1941年6月18日)
千葉県のある村で、息子の出征を励ます母を描きながら、強い皇軍の支えは銃後の力であり、ことに「母こそわが力」が大きいことを力説する作品だが、1904年の短歌が登場する。
・子らは皆戦の場に出ではてゝ翁や一人山田守らん(明治天皇)
*こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田守るらん(『明治天皇御集』明治神宮社務所編刊 1952年11月)
③「産業報国」(平林博脚本 油野誠一絵 1941年10月5日)
大日本産業報国会提供作品で、冒頭場面では、1904年の短歌が使用され、最終場面は工場街を背景に「護れ!職場はわれらの陣地!」の大きな文字が描かれている。
・よもの海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらん(明治天皇)
④「あまいぶだう」(日本教育紙芝居協会脚本 羽室邦彦絵 1941年10月5日)
軍事援護強化運動の一環として制作された作品で、国民学校の児童たちと近所の傷痍軍人との交流を描いている。ここでは、昭和天皇の良子皇后の短歌が引かれている。1938年10月3日(軍事援後強化時期10月3~4日)に寄せた短歌であった。戦時下の女性皇族の役割として、傷病兵やハンセン病者たちへの慰問などが担わされていたことがわかる。
・あめつちの神ももりませいたつきにいたでになやむますらをの身を
(香淳皇后)
⑤「英東洋艦隊全滅す」(日本教育紙芝居協会脚本 小谷野半二絵 1942年1月21日)
1941年12月10日、12月8日の日米開戦直後の、日英マレー半島沖戦の戦闘場面を誇る戦意高揚作品。次の1905年短歌で締めくくられる。
・世の中にことあるときぞ知られける神のまもりのおろかならぬは
(明治天皇)
⑥「大建設」(選挙粛正中央聯盟(作成)1942年3月17日)
表題の上段に「大東亜戦争完遂」、下段には「翼賛選挙貫徹運動」が掲げられる。太平洋線追うが始まっての翌月1942年1月の歌会始のお題「連峰雲」の昭和天皇の短歌が絵や台本に刷り込まれている。
・峰つゞきおほふむら雲吹く風の早くはらへとたゞいのるなり
(昭和天皇)
⑦「学の泉」([斎藤史弦絵] 1943年1月23日)
仁徳天皇、菅原道真、伊能忠敬など歴史的人物が一人一枚で登場する「教育勅語」の解説作品のなかで、1891年の歌会始「社頭祈世」の作品が引かれている。
・とこしへに民やすかれと祈るなるわがよをまもれ伊勢の大神
(明治天皇)
「峠」(斎田喬脚本 伊藤文乙美術 1945年7月10日)東京から農村に疎開してきた少年の成長を描く物語。斎田(1895〰1976)は香川師範卒業後、成城小学校の教師に招かれ、学校劇・自由画教育に携わった。戦後は児童劇作家協会を設立している。
「三ビキノコブタ」(川崎大治脚本 西正世志絵 1943年3月20日)昔ながらの童話もある。川崎(1902~1980)は巌谷小波に師事、一時、プロレタリア児童文学運動にも参加、戦後は児童文学者協会設立にかかわり、後、会長となる。
初出:「内野光子のブログ」2018.03.28より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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