現代史研究会にもっと学生を呼び込めないものか?
その老婆心ながらの素人による素人の為のマルクス学入門的補足です。
シールズの皆さんも是非、遊びに?学びに?来て下さいね。
10日の4時間を更に、相互通行的に緻密に、講演から聴衆対話的に仕上げる為に?
僕自身マルクスが相当好きなのだが、マルクスばかりをやってもいられない。
その中で、どの様に、整理すべきであるだろうか?
時間が、無制限ではないのだ。
50年の人生であるのなら100年の人生であるのならアニメコードギアスの魔法少女の様に、1000年生きるのならもっと精密にも問いただしたいが、
貧者は、更に、短い。尾崎豊26歳、松田優作39歳である。
80歳まで生きても別な主題を追い求めるなら高倉健、菅原文太の人生もある。
芥川龍之介に「或社会主義者」と言う短い一篇もあるが自身の哲学の方が重要であったのだろう。
人生の根底に、有益なる問いの一つとして社会主義があるのか否か関わらなくともヤクザ映画の義理人情、人生劇場的根底としての無意識的関連もあるやも知れないその淡い関係からの潜在性を理性的に主題化する連続性の一片に他ならない。
では哲学から社会主義についての関わりとは何であるのだろうか?
カントからマルクスへの問いもその中に含まれている。
哲学は、素養や知識ではなくより根底的な人生への問いであり、西洋的にはソクラテス、東洋的には、儒教思想、仏教思想も実際は、同じ位相を持っている事は前提にある。
その膨大な歴史的知の加算から社会主義の有効性、21世紀に通じる有効性とは何であるのか?
この問いに他ならないのであるが、そのつど、大前提たる上記の基点に戻れるかは不明である。
日常性の断片について常に神仏が意識されてある訳ではないが、何らかの理解了解内容の断片が提示されている事が、生きている事のつながりである場合が多いからだ。
では、今、マルクスについて何が問題となっているのであろうか?
僕としては、ピケティ氏の言う様に、データーなき時代の理念的概念的「資本論」をデーターを加味して、現代資本論体系として仕上げるに尽きるのではないかと思うのだが、そこに向かうにも大いなる助走が、問われてるのだろうか?
それは何か?
『資本論』の文法
文法的解題は、哲学以前の考察に他ならない。
フーコーの言う言説、ディスクールと言う問題意識として20世紀以来、問われている延長である事が伺える。
カント哲学は、有機的独立性も保っているのであるから文法的断層化にはやはり注意が必要なのではないだろうか?
しかし、この思考には、既に、先人哲学思想として、軌跡があるものであり、スピノザからマルクスへ。
そして、カントからマルクスへは、日本的な問題意識として展開されてきたのは、周知でもあるものは、近代図式としての主客図式からマルクスへと言う廣松渉であり、
『トランスクリティーク カントとマルクス』柄谷行人が既に、金字塔の様にあるからだ。
僕的に平たく言うと「個人と社会」の関係とは何か?
個人=私有財産と社会=納税義務以上の地平、文化的もしくは、技術的公共性の関係とは何か?
ロビンフッド経済学を越える問いを仕上げる為のカントとマルクスへの哲学的説明し直しではないのかと思うのだ。
それが、わかりやすいものとして、進展、最前線化されたるマルクス学として日本の聴衆、学生、労働者のものとする手助けとなっているなら幸いである。
天文学からマルクス経済学までを串刺しにする必要があるのかいささか疑問である。
図が、三つ挟まれているが、わかりやすさの手助けとなっているのか今の段階では疑問を感じる。
今のままのマルクスでは、ソビエトの失敗を越え出られない。
マルクス理解のわかりやすさのとしての池上解説と佐藤優氏的対談主題としての展開があるものの忘れない様に、維持している段階であり、広報としては役立っているが、批判的継承、致命的欠陥の乗り越えの理論として学術的次のステップには、進められていない現代哲学、ピケティ経済学的限界点に到達しているのだろうかと不安になるものがある。
それについてのカルチャルスタディーズ的で判然としない花崎皋平氏のマルクス展開、世界先住民会議、水俣宣言、『静かなる大地 松浦武四郎とアイヌ民族』から『田中正造と民衆思想の継承』までの具体的運動論とマルクスの関わりについて、更に、脱原発運動も加味された中での具体的思想広報と運動から具体的実現としての社会主義的段階のヴィジョン定立とは何か?
僕としては、知識として遠い民族問題としての問い以前に、具体的個人の内面的問いであるカント哲学がある様にも感じる。
民族問題は、文化人類学的展開であり、知識的後天性を持つ展開であり、大衆に受け入れられ難い、特に、日本では情報的に、遮断されており、そこをこじ開ける事からしか開始されない。
それ故、ちきゅう座にては、海外の時事性としてのシリア難民問題やイスラム国悲劇から遡って、宗教イスラム教問題や民族問題としての広がりをアジアに当てはめているじょうたいである。
しかし、本来は、抑圧されている民族問題と資本主義は、知識的後天的問題であるが故に、自己のアイデンティティとしての分析の問題としてのカント哲学論、デカルト的全てを疑えの延長上の定立としてのカント哲学論が、「民族問題に先立っている」関係は、どうであるのか?
知識として、生きる事の人生とは何か?
日本の中の運動、政治改革の優先課題としての民主主義、「一票も取り逃がさない」「どぶ板選挙、貧者への希望の伝授革命」としての
三世代革命論(一族・家族・個人)が、民族問題に、優先する「知の前提」としての問題があると言う事であると展開しているわけである。
カントからマルクスへであるが、
形而上学や仮象を、科学的には、仮説であるが、それを全面肯定する立場ではなく、形而上学批判、オカルト批判としての現代人、マルクス側の唯物論の定立問題もあるだろう。
この様な形で、カントからマルクスへの学習会、そして、脱原発から具体的実践、社会運動論の展開、広報とは何かを、この数日で、学んでいけたならと考えているわけです。
是非、ご教授のほどよろしくお願いします。
「第2版序文」とレジメにあるのですが、今、僕の持っている岩波文庫版では、第ニ版の後書となっています。
同じ文章なのでしょうか?
取り急ぎ広い参加者を呼び込みたいための一文として認めてみました。
三世代革命論 第3楽章
「花崎皋平氏とマルクス・社会運動史」に続く
みなさん、是非、現代史研究会に新規参加よろしくお願いします。
出来ましたなら、現代史研究会vsピープルズプラン研究所「日本の社会運動と先住民民族会議を考える」大会議をよろしくお願いします。
武藤さん、小倉さん(本人は、別人ですと言っていましたが)先日、第一戦目参加してきました。
たんぽぽ舎さんの書き込みにも紹介がありましたね。
目指せ、日本のアラビアのロレンス!
演劇的に前衛的学習会を広げていきましょう。
幾らでも有意義で、面白い「楽しい知識」「連帯」は可能であることを示す事で、革命的運動は、広がります。
植草一秀氏「マッハ555」と昨日、言っていましたね。