『神近市子の猛進』を読む、神近は短歌も詠んでいた(2)神近市子、波乱の生涯

   神近市子は、長崎県出身、父と兄を幼少時に亡くし、姉二人との母子家庭で貧しかったが、読書する文学少女で,活水女学校を経て、津田梅子の女子英学塾で学ぶ。在学中に『青鞜』に参加、1913年女子英学塾卒業後、弘前の県立高等女学校の教師になるが、『青鞜』への参加がばれて一学期で退職。東京に戻り、尾竹一枝(後の富本紅吉)、伊藤野枝とも知り合い、小野賢一郎(1888~1943,俳号は蕪子)の紹介で東京日日新聞の記者となる。東京日日新聞の高木信威(1872~1935)との不倫関係にあって女児を出産、生家に預け、記者活動を続けていたことが、上記事件の公判中に明らかになった。

 1915年大杉と知り合い、16年上記の事件に至り、東京日々新聞社を退社。1919年服役後からは小説、翻訳、評論など多角的な文筆生活に入り、20年に鈴木厚と結婚、一男二女をもうけるが、39年に離婚。その間、プロレタリア文学運動にもかかわるが、28年長谷川時雨の『女人芸術』創刊より参加、その廃刊を継ぐような形で、34年には自ら『婦人文芸』を創刊する。当時の執筆メデイアは、新聞、総合雑誌、婦人雑誌、文芸雑誌、時局雑誌等多岐にわたる。人脈も広めてゆく。39年の離婚前後から、3人の子どもとの生計も神近の双肩にかかってきたためか、執筆量も多く、大手出版社による『中央公論』(中央公論社)『雄弁』(講談社)『現地報告』(文芸春秋社)『新女苑』(実業之日本社)などへの寄稿も増した。日本文学報国会の会員ではあったが、彼女の論稿の基調は、戦時下の女性労働者の重要性とその権利保護にあって、意識的に、戦意高揚に直接的につなげることを避けたきらいがある。また、とくに太平洋戦争開戦前後からは、語学力を生かして、1940年『トルキスタンの旅』『動物と人と神々』『アメリカ史物語』、1941年『アメリカ成年期に達す』、1942年『新疆紀行』、1943年『船と航海の歴史』などの翻訳が多いのが、他の評論家に見ない特色と言えるのではないか。

 近年よく使われるようになった、内閣情報局の内部資料『最近における婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)は、婦人雑誌八誌を対象に、婦人執筆者の執筆頻度、その内容種別などを、1940年5月号から翌年の4月号までを調査、各人、各文献の解説、出版社の評価など「量的」「質的」分析がなされている資料である。今回、神近市子を調べてみると、「純粋評論家」として3点が挙げられ、決して多い方ではないが、「彼女の婦人解放の思想は此の意味に於て依然として、社会組織に於ける不合理の状態の廃止を目指して社会を変化せんとするあの社会主義的態度を思はせるものがある」などと評されている。

 『神近市子の猛進』の著者石田は、戦時下における神近の文筆活動について、つぎのように述べている。
「そこに女性の戦争協力を先導するような言説はなく、運動として表舞台に立つこともなく、街頭に進出することもなかった。戦争を奇貨とする点では同じであったが、女性の国民化という大衆運動を展開し、公職追放となる市川房枝のように、戦争協力が問われることになる女性指導者たちとは、その点で一線を画していた。」(200頁)

 戦後は、その参議院議員市川房枝らとともに、神近は売春廃止の法案を何度も国会に提出するが廃案になっていたが、さまざまな曲折を経て、不備が指摘される中、t956年5月24日公布に至り、施行させた彼女たちの功績ははかりしれないものがある。 

 私は、短歌の師であった阿部静枝が、上記の資料で「純粋評論家」として、多くの婦人雑誌に重用された実態について触れたことがある。夫、阿部温知とともに無産政党の党員としての活動の過去がありながら、戦時下において、評論家としての執筆や活動を拡大してきたのは、かつての活動で得た知見や執筆・弁舌能力と社会性を備えていたからであり、歌人という肩書も加わって、翼賛へと傾いていった過程をたどったことがある。また、彼女には、結婚前に、男児を出産し、隠すように他人に預けて活動してきた経緯があり、夫と死別してからは、子供を引き取ったことによる経済的な必要と体制やメディアから「期待」される蜜の味も手離したくなかったため執筆活動に励んだ一面もあったと推測される。そして、戦後は、社会党から分かれた民社党の党員となり、豊島区区議会議員を三期務めたことを思うと、神近市子ほどの革新性や話題性はないが、一人の女性の歩みとして、似たような軌跡ではなかったかと、あらためて感慨深いものがあった。

参考:「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか 女性歌人起用の背景」『ポトナム』2006年1月~2月。『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)所収

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下段は「量的考察」の「純粋評論家」の図表の一部。氏名の五十音順で、阿部静枝は11点で座談会が多いのが目立つ。後のページで、トップは宮本百合子の22点、次が羽仁もと子の19点が突出している。

初出:「内野光子のブログ」2025.8.13より許可を得て転載
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