『神近市子の猛進』を読んだ、神近は短歌も詠んでいた(1)神近市子の短歌

・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  神近市子が、このような短歌を詠んでいることを、石田あゆう『神近市子の猛進 婦人運動家の隘路』(創元社 2025年3月)で知った。なるほど、神近らしい、と思った。

 神近市子(1888~1981)といえば、なんといっても、アナーキストで自由恋愛を主張する大杉栄と恋愛関係にあったが、妻堀保子と愛人伊藤野枝(辻潤の妻)の四人の複雑な関係と確執から、1916年11月9日、葉山の日蔭茶屋で大杉を刺傷したという事件が有名で、裁判を経て、17年10月から2年間服役している。当時は、神近の嫉妬による犯行であるといったスキャンダルめいた報道が多かったようである。今ならば、有名人のW不倫以上の複雑な関係が取り沙汰されるに違いない事件だった。
  私は、神近市子の「社会党左派」の議員であった、もう一つの顔の方が身近だった。私の若いころ、生家のあった地元池袋を含む当時の中選挙区「東京5区」選出の政治家としての姿が印象に残っている。母と出かけた演説会や選挙ポスターから受ける印象はやはり、「闘士」の面影が色濃かった。1953年、吉田茂首相の「バカヤロー解散」後の選挙で 初当選、65歳であった。ちなみに、そのときの東京都の当選者は以下の図表の通りで、なんとなつかしい名前ばかりである。


1953年4月衆議員選挙東京都当選者。5区に鈴木仙八、神近市子、河野密、中村梅吉の名前が見える。淡い空色が社会党左派で原彪、鈴木茂三郎、帆足計、島上善五郎、山花秀雄。ブルーが浅沼稲次郎、加藤勘十、三輪寿壮、菊川忠雄、山口シズエ、中村高一。社会党が強かった!

  この後も、神近は、60年11月の一度の落選を挟んで、55年1月、58年5月、63年11月、67年1月の選挙で当選、5期を務め、81歳で政界を引退している。

 1919年の出獄後から1953年衆議院選挙で初当選するまでの間の活動は、断片的に垣間見ることはあったが、『神近市子の猛進』で初めて知ることも多かった。

 その一つが、神近と短歌の出会いであった。(66頁)出典は、神近の長男鈴木黎児編集による『神近市子文集(三)』(武州工房 1987年11月)であった。さいわいにも、国立国会図書館でデジタル化されており、しかも個人送信により入手することができた。そこには、二本の短歌関係の随筆が収められていた。それらの文献によれば、神近は、鈴木厚との結婚時に「(淀橋区)下落合」に住んでいたのは、半田良平宅の道路を隔てた向かいであり、その後も近くに家を建てたらしい。半田良平夫妻、子どもたちと家族ぐるみの交流があったことと、今井邦子の『明日香』には、気ままに投稿する仲だったことが書かれている。

 北海道に遊説で道南を回った折にはつぎの歌を含む五首を書き留めている。
・見はるかす札幌のかた夕陽はえて ポプラの並木赤くもえたつ(月寒の丘にて)

・開拓の長き苦難をかたるかに 古きサイロ山合にみゆ(倶知安にて)

 衆議院の法務委員会で、岐阜・愛知へ視察に出かけたとき、岐阜の宿で、請われて色紙に書いたのは、東海道での光景を詠んだつぎの歌だった。同行の議員たちも、その光景を見ていたので、喝さいを浴びたという。
・白鷺はおもしろきかな畔にいて 田植える人を眺めて立てり

  当時の「心境にはつぎの歌がもっともピッタリとくる」として、エッセイを閉じている。
・つれづれを史記よみてあり愛しきは 夏殷周の興亡のあと
 (以上「歌と詩と――半田氏の自称弟子」『随筆サンケイ』1961年3月。『神近市子文集(三)』所収)

 さらに、もう一本のエッセイ「私の短歌」では、今井邦子との出会いに始まり、自分の勉学の道をひらいてくれた家族やふるさとの大村藩という経済的に豊かだった背景にも及んでつぎのような短歌が記されている。
・ふるさとは友ありてよしこの宵を 心ゆくまでかたりあかして

  1958年7月のソ連視察時、公務が終わっての自由行動の折、トルストイの生地行きを提案、一同向かい、トルストイの墓を訪ねる。彼の墓はトルストイ一族の立派な墓ではなく、樹木の下にひっそりと石一つがあるのを目の当たりにして「何だか悲しかった」としながら、詠んだのがつぎの二首である。
・大樹の下に長方形の石一つ 墓をたずぬる人絶えまなし

・妻や子とは離れて眠るトルストイ 墓をたずぬる人絶えまなし

 二通りの表現を試みて、「主観と客観の違いだけで、どちらに重点をおいたわけでもない」と歌作にも余裕が感じられる一場面である。

 また、1959年、北欧諸国の福祉施設の視察で回ったときに「こんな一首がひょいと頭に浮かんだ」とある。
・北海の波分けてくる船ひとつ 我に希望もたらすがごと

 さらに、このエッセイの終わり近くには、「こうして原稿を書いていると、自分の生涯のことが次々に追憶され、私の生涯が成功と失敗の連続だったことが思い出されて来る」として、冒頭の一首が挙げられている。
・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  「孤独は自分でつくりだせることを知らなくてはならない。周囲に人なく物なくそれを孤独と考えるのは外形的なもので、外に求め、あこがれる場合は孤独ではない。求めず、あこがれぬ心境こそ孤独というものだろう。」「(芸術の)作者の側にも世俗に惑わされず、真実をあくなく追及してそれを表現する努力につとむべきだろう。」と。
(以上「私の短歌」『朝日新聞』1975年8月。『神近市子文集(三)』所収)

  なお、この『神近市子文集(一)(二)(三)』を編集した鈴木黎児は、神近と鈴木厚の長男で、離婚の際には神近に引き取られたのだが、苦労も多かったようだ。それでも、母の書き残したものを、自分なりの眼で収集しての私家版であったようだ。『神近市子著作集』全六巻(日本図書センター 2008年)が刊行される20年以上も前のことになる。さらに、鈴木黎児は、各文章の末尾に、解説を付し、執筆の背景や鈴木自身の率直な感想や批判もしているのである。その収集の努力と遺族による顕彰のみに陥りやすさを抑制している営為には敬意を表したい気持ちである。

  なお、今井邦子との関係ついて、神近の以下の文章がある。
「最後に会った今井さん」『明日香』今井邦子追悼号 13巻8号 1948年11月
「最後の会見」(今井邦子追悼講演録)『明日香路』1巻4・5合併号 1949年5月

  また、堀江玲子『今井邦子の短歌と生涯』(短歌新聞社 1998年1月)にも、邦子が鶴川村への疎開を紹介されたこと、再疎開した下諏訪の生家に、神近が4・5回訪ねていること、亡くなる年1948年2月にも見舞っていることなどが記されていた。

 半田良平については、さきの『文集』にも何度か出て来るが、「隣人としての半田先生(一)(二)」(『沃野』31~32号 1949年10月=11月)に詳しい。

*引用の短歌は、原文では二行の分かち書きになっているが、ここでは一字アキで示した。

(つづく)

初出:「内野光子のブログ」2025.8.12より許可を得て転載
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