「支配階級の思想は、いつの時代にも支配的思想である。すなわち社会の支配的な物質力である階級は、同時にその社会の支配的な精神力でもある。……支配的な思想は、支配的な物質的諸関係の観念的表現、すなわち、諸思想として把握された、支配的な物質的諸関係以外のなにものでもない。」(59)
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Marx%20German%20Ideology.htm
この一文は、既に、高等学校の教材の中にも見出されていたマルクス紹介の出発点でもあり、その当時、支配的であった思想の一つとしてヘーゲルの両義性があったわけである。
ヘーゲルの魅力からマルクスまで語るには、余りあるので、今週土曜日、予定されているヘーゲル法哲学研究
https://chikyuza.net/archives/60867
こちらの展開に期待しつつもマルクスと現在に至るまでのパースペクティブ(遠近法)なる粗描から
《大・経済学の試み》としての世界資本主義Ⅰを射程に入れながら更なる具体的な実践的指示性として何があるのかを明らかにしていきたい。
①思想から情報へ
情報については、先日の
https://chikyuza.net/archives/60405
こちらでも取り扱われていたわけであるのだけれども、「ミイラ取りがミイラとなる」没資本主義的混乱が随所に見受けられてしまうのは、「資本論」以来の「伝統」であり、今日まで続いているものではないかと僕自身は、問いを持っていたわけである。
その呪縛を乗り越えていくのは、本来簡単なのではないかとも思っていたのだが、まだまだ同調者を見いだせずにいる様にも思えている。
その孤立状況、更には、「ちきゅう座」、インターネット宇宙としての星の数ほどの点在化される在り方の上部構造化に対して、経済学(=貧困)としての下部構造(土台)についてテキスト的段階にまで語り道筋を明らかにしたいとするのが、ヘーゲル的転倒ではないイデオロギー以前としての経済学、貧困論理、下部構造(土台)そのものであると言う事になる。
さて、『世界資本主義Ⅰ』は、副題を「新情報革命と新資本主義の登場」としている。
僕自身は、「新」「新左翼(その実は、既に、旧、旧左翼)」全く、時間の流れに対応しきれていないこの字を使用しない事にしており、「真」の字を当てているのであるが、
「シュチエーション」とは、サルトル全集の小論文集名称でもあったのだが、「情(なさけ=人間)」はどこへ行ったか?
そのこだわりも一文として指摘されている故に
https://chikyuza.net/archives/60962
言葉へのこだわりとして、当然のように、横文字が「新」ではなく、何か新しいものを付加しているのではなく、むしろ、資本主義的まやかしであったのであり、本質的問題として指摘しながら先に進むことには賛成せざるをえない。
「古くを知り根底となしていく」「知を正していく」
それを今なしていかねば、「野党共闘」以前の「アソシエーション連携」にもたどり着けていないと言うわけである。
さて、「思想から情報へ」であるのだけれども、ヘーゲル右派観念的なるものが、力を持っていた時代から山本太郎氏の指摘する巨大メディアの支配に至るまでの在り方は何として理解すべきかと言う問いである。
電通的支配とは何であり、独立とは如何にして獲得されるのか?
また、その独立が、孤立、新たなる「ロビンフッド経済学」であったり、「プライベート牢獄」であってはならないわけであるのだが、
「情報にまつわる商品化分断化」とは何かの問いを早急に仕上げていかねばならないと言う事に他ならない。
②情報の孤立とそれぞれのロビンフッド経済学情況について
さて、出来るだけわかり易く展開したいと考えているのであるが、まずは、「夏の参議院選挙」における一強多弱としての在り方であり、反面教師としての「そこまで言って委員会」(大阪ローカル番組)にもある様に、
自民党支持42%民主党支持7%の歴然的なる全体主義的奴隷状況は、何に基づいているのかがあるのである。
「保育園落ちた日本死ね」のような形のジャブではやはり本来の下部構造としての貧困にまで問い出せないし到達されていないだろう。
国会における安倍晋三的詭弁は、論理的には、植草ブログが、
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-222d.html
上記の様に、徹底的に、論破している様に思えるのだが、その経済学的理解が、民主主義の担い手である「情報弱者」支配を受けざる負えない人々に浸透されない「巨大メディア」としての情報統制の根底こそが問われなくてはならないのである。
植草ブログが指摘する「所得がまったく増えていない。むしろ減っているのである。」この部分は、トリクルダウンとして先送りしてきた安倍晋三詭弁答弁においては触れていない曖昧として上っ面だけの思想であり、貧困としての下部構造へと言及しないできた故に、データー的にも議論的にも深まらない暗転する詭弁国会を見せ続けられていると言う事である。
それを、是正するにも今だ、旧来的な「巨大メディア」としての情報統制、大本営発表状況があると言う事を一人一人が理解する、また、理解した人が、他者へと伝えていく
情報を水や空気のように取り扱う共同体経済としての場が確立されていない故の事であり、
情報弱者は、自己のアイディンティティ、労働者も労働者としてのアイディンティティに到達されていない「自己喪失」としての「情報統制」の呪縛から如何に解き放されるのかの問題として
この主題を置くための、『思想から情報へ』の問いとなっているわけでもある。
③詭弁国会の整備は可能か
更に、建物ばかりが立派な精神病院、競技場、保育園などと人間育成のギャップについて。
3月9日
http://revolutio.exblog.jp/22944719/
こちらにある様な疑似体験を友愛党的文学を更新してきた。
「物忘れ外来」から精神病院まで。
認知症について的確に語り、「症例」を加算しようとする医師のがいない事を理解した。
待合室で友人の付き添いをして待っているとそこへ患者らしい老婆にも話しかけられ面白い事になった。
「長谷川式」の話。
看護婦にまずは、事情を話し、更に、紹介状。
医師の話は、型通りであり、精神科医の限界を感じたと友人。
若い医師であるが、患者を放り投げる在り方にやはり憤りを感じるばかりの日本の現状である。
この方面は、出版物であっても未開拓分野であり、国民の無知支配に基づいていると言えるだろう。
https://chikyuza.net/archives/60893
ちきゅう座における精神医学分野の充実をお願いしたいが、知識本位、興味本位ではない上部構造的ではない具体的下部構造化する方向で、お願いしたいものだ。
④世界資本主義Ⅰへ戻りつつ
「情報」の何が問題であるのか?
どこからが、情報であり、その観念を打開してそして、実践へと結び付けられるのか?
この問いを明確にしなくてはならない。
原発問題も戦争法問題も根底にあるのは、「新自由主義政策と新たな財閥再編」
https://chikyuza.net/archives/59420
この様にある利権構造であり、それを解き明かすのが、「資本論」体系であったわけであるが、資本論の何が今、有効であるのかの迷走する状況が続いていると言うわけである。
しかし、ピケティからマルクスへ、によって、わかり易くなった面もある。
資本主義から共同体経済へ。
それによって、資本主義中枢である軍需産業、更に、原発利権産業への構造批判として、
世界資本主義は、完成されるべきではないだろうか?
その様に考えている訳である。
情報と商品と物神性についてこの問いを更に突き詰めつつ、具体的実践をどの様に捉えていくべきかを更に、語りだしていきたいと考えているが、今回も時間切れであるために、ここで筆を一端置こうと思う。