人はそう簡単に死ねない死なないのだ。昨今その様に感じている。
若いころは、太宰治や芥川龍之介に影響を受けて「自殺」や「死」について自然に備わっているものと虚無的に受け入れる要素もあったのではないだろうか。
しかし、今は、一面的ではなく、複合的に考察したいと思い直してもいる。
3月4日(木)、約束通り、昼過ぎ、地区日本共産党F氏より折り返しの電話を頂いた。
前日、今の認知症は素人目にも防げるのに防ごうとしない病院の在り方、そして、施設の具体的な在り方について地方役所に問いただして、極めて、役所的(行政的)な問題ではなく、「政治的改革」(人間的知の改革)を必要としている問題点ではないかと電話をかけていたのであるが、長くなりそうなので改めて、こちらから連絡しますと約束を取り付けていたからだ。
翌日にしてもらったのは、こちらの都合でもあった。
《健康な人には、病人の気持ちはわかりづらい。》
僕自身もこれだけ話題になり、再三、ニュースで取り上げられて初めて、認知症について目で見て理解した段階でもあるが、素人目でもこれは、最大限防いでいけるのに防ごうとしないそして、むしろ悪化させ寿命を縮めさせたいとしている様にさえ思える国会答弁にも出くわし、更に、確信を強める結果にもなっている。
安倍政権もくろむ「要介護1、2外し」で介護破産に現実味
http://www.asyura2.com/16/senkyo202/msg/375.html
3月3日
小池晃(日本共産党)(午後からの部参照)
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
ついでに余談であるが、こちらも大きな話題になっていただろう。
「保育園落ちたの私だ」国会での酷い対応に怒り爆発!緊急デモに発展!
http://www.asyura2.com/16/senkyo202/msg/423.html
3月6日の「報道2001」にて認知症人口の推計が冒頭にて示されていた。
2012年 約462万人
2025年 約700万人
様々な事件もそうであるのだが、一人の認知症者に対して、介護する家族があり、「介護離職」問題として、政治問題としている構造になっている故に、この問題は、深刻なのではないだろうか。
殺人事件や交通事故についても、家族の背負わされる賠償や悲劇も余りあるのだがその悲劇については、表面のニュースには出てこない問題点がいつもある様に感じている。
それぞれ同じ位相を持っているのだが、「認知症」問題に今は、絞って問題としていきたい。
この事は、更に、告発していかねばならないだろう。
インターネット上で、公としていき、悲劇を最大限食い止めていく必要を感じている。
だが、それをさせない、医学の独占と政府の思惑がある様に感じだしている。
この問いに同意する方々、家族はいないのであろうか?
簡単な理屈の様に思えるのだが、それぞれ「孤立」させられている故の問題もあるのではないだろうか?
これは、具体的な貧困、「情報弱者」の側からの問題意識であり、誰も無関心では入られない故に、政府批判、医学独占批判の具体的発火点となると僕は感じている、その意味で、即物的で具体的な唯物論的人間像に関わる直接の問題であるとも考えている。
人は生まれて死ぬ。
そして、その死として親愛なる親族、そして、家族であるとしたなら誰もが決して無関心でいられない全力を傾けるべき問題点であろうからだ。
僕は、この問題を「良心」の問題として、問いかける事を心掛けている。
黒澤明の『生きる』にあり、『赤ひげ』にあったものであり、繰り返し、それ以後の医学の良心、人間学としての普遍的良心の問いとしてわかりやすく説明する事を心掛けている。
先日、3月2日、認知症問題の治療にて病院を訪ねたところ、不当なる「治療拒否」に出くわす事となった。
それをよくよく省察するなら、病院側に、その罠、トラップがあったように思う。
今の段階では、具体的に述べずとも知りうる者にとっては何を差し伸べているのかわかる段階のインターネット上の告発で事足りているのであり、いずれ、更に、明確に、全ての真実を説明する段階が来るかもしれない。
しかし、疑惑が確証となる段階を待つのが、前哨としてのこの一文となっているわけである。
これは、TPP問題、医療の商品格差問題の前哨戦でもあるのではないかと僕は考えている。
《認知症は、最大限防げるにも関わらず防がない社会的構造》についての告発は、一分一秒を争う問題であると僕は考えている。
これは、命の問題であるからであり、身近な者の命を蔑ろにする歴史が、理想(知性観念)や頭だけで考える社会主義であったり、戦争問題、更に、それらの根底にある「資本主義」そのものの問題に抵触する問題であると言う事でしかない。
実際、政府や医学独占体制は、貧困者、更に、700万人に上るであろう認知症、老人、更に、介護者まで「早く死んでほしい」としている切り捨て状況があるのではないかと言う仮説になるわけである。
それが、上記の小池晃氏の質問の中にあり、その裏側にて支配している医学独占体制としての商業主義の中にあると僕は、考えている。
水や空気の様に、認知症情報と共同体としての領域が確立させたくないのは、奴隷である労働者はつなぎ留めたいが、年金生活をする老人は、寿命を縮めさせたいとするのは、時の支配階級、富裕層の常であり、故に、現代にあっても『楢山節考』の最貧困の在り方から抜け出していない故の「認知症」は防げるのに防がない「見殺し」体制となっていると言う事に他ならず、
簡単に誰でも、素人でも理解できる理屈であるのだが、それを、怒りを持って医師自身に問い出そうとインターネット上、「ちきゅう座」にも繰り返し書きだしている事は、告げてあったし、更に、問う事も事務方も知っていたような節があったわけであり、事情を既に、察知していた様に、トラップを仕掛け、即座に、「診療拒否」としてのストップをかけたとしか思えないものが随所にあり、恐るべきものを感じたわけである。(これについては、最後のリンク参照の事)
こちらは、「良心」に訴えかけるだけであるが、それこそが、商業主義的医学独占の最大のウィークポイントであると言う事でしかない。
更に、これによって確信を強める結果となっていったわけである。
貧困者自ら「民主主義的に」声を「保育園落ちた日本死ね」の様に声を上げられない「情報弱者」更に、「認知症」として使い捨てられている「非人間的」「非良心的」資本主義商業主義の根本として告発せねば、「共犯者」、
サルトルの言う「否」と明確に伝えないとしたならそれは、認めている事になる、そのぎりぎりの「良心宣言」こそが、この起点であると言う事であり、これを、上記の小池晃氏の質問の延長上として、ライフワーク的に告発し続けていきたい。
これが、今ある最も有効なる「革命の論理」基点であると僕は考えている。
3月6日の山本太郎氏のツイキャス
http://twitcasting.tv/yamamototaro0/movie/248660136
15分位から山本太郎氏の話が始まります。
繰り返し、スポンサー、大企業の為の巨大メディアであり、映画や創作さえ支配している。
電通支配は、鎌倉孝夫先生の講演会の後の飲み会でも半ば諦念を含めて話題とされていた点でもある。
ピケティ的教育格差から情報弱者、そして、労働奴隷から使い捨てられる搾取結語的認知症の図式があると告発を更に強めたい結果となっている。
この事を冷静に問い詰めていかねばない。
是非、この告発を再び、ちきゅう座にて掲載お願いしたい。
決して、山本太郎氏の述べている商業主義的圧力が、「ちきゅう座」にまで及んでいると僕は考えたくはない。
時間のない中でもやらねばならない告発であり、緊急性のある告発すべき事柄であると思われるために、この一文を長年の友愛として、昭和より戦い続けて来る同志に託すのだ。
以下、参考資料を入れる。
付録:認知症110番
http://revolutio.exblog.jp/22944714/
新ブログ研究
日本マルクス主義研究
http://blogs.yahoo.co.jp/akiratakeda2001_0306
更に、冷静に、ゆっくり論を展開していきたいと考えている。
決して理解に難しいものとは考えていない。
自身の良心に忠実であるかどうかの問題であると考えている。
是非、ご考慮お願いします。