【新刊案内】新藤榮一・木村朗編 『沖縄自立と東アジア共同体』(花伝社)

新藤榮一・木村朗編新刊『沖縄自立と東アジア共同体』(花伝社)が出ました。
“沖縄”に光をあてる!
琉球・沖縄からの視座
鳩山民主党政権以後に高まった、沖縄の自立・独立を求める動きーー「自発的従属」を本質とする現在の日米関係の根本的見直しにもつながる、東アジア共同体構想。その中心地となる「沖縄」を主軸に、様々な視点から21世紀の東アジアにおける国際秩序のあり方を問う。
いまこの人たちが沖縄を語る──超豪華執筆陣!
進藤榮一、木村朗、鳩山友紀夫、高野 孟、大田昌秀、前泊博盛、島袋 純、松島泰勝、新垣 毅、前田 朗、藤村一郎、稲嶺 進、伊波洋一、糸数慶子、川内博史、仲地 博、石原昌家、岩下明裕、金平茂紀、白井 聡、ガバン・マコーマック、ピーター・カズニック、野平晋作、乗松聡子、元山仁士郎、玉城 愛、猿田佐世、倪 志敏、阿部浩己、目取真俊
この本に寄稿させていただいたブログ運営人のコラムを紹介します。
「東アジア共同体」実現の鍵は、日本人自身の「視座」にある
乗松聡子
 201606okinawajiritu (1)カナダ・バンクーバーというアジア系住民の多い地域に暮らしながら日本を外から観察するにつけ、日本人は歴史認識においてアジア隣人と深い隔たりがあるということを日々実感する。日本人の多くは、日本が明治開国以来欧米の轍を踏み産業化・軍国化する中、沖縄を含むアジアで植民地支配と侵略戦争を拡大し破局を迎えるまで、つまり「終戦」までの約70年間の歴史と自国軍のアジアでの加害行為をほとんど知らない。自国内においても在日コリアン、沖縄、アイヌの人たちへの差別という形で残る植民地主義に気づいていないか、気づいていても知らぬふりをしている(参照:知念ウシ『シランフーナーの暴力』未來社、2013年)。この加害者意識の欠如は、「東アジア共同体」形成の最大の障壁の一つであろう。
EUは、ドイツによる戦時の加害への反省と教育の徹底、かつて侵略した国や地域との和解という土台があってこそ実現できたのだ。アジアにおいても、日本人が冒頭に述べた負の歴史と今に続く影響を真摯に学び、謙虚な姿勢でアジア隣人たちの信頼を取り戻す努力を行わない限り、「東アジア共同体」の実現はできないだろう。特に現在は安倍保守政権が率先して行っている歴史否定や中国敵視にもとづく好戦的政策が弊害になっている。
また、日本ではアジア隣国に対して友好的であろうと思う人たちでさえ、靖国神社、南京大虐殺や日本軍「慰安婦」といった歴史認識問題については日中、日韓の「溝を埋める」、歴史的理解の相違を「擦り合わせる」といった考え方をしている人が多いようだが、加害と被害の間で「中立」ということはあり得ない。悪いことをした方が悪いのである。日本人から自らの歴史的加害の立場性を踏まえ、明確な責任意識を示してこそ和解の始まりになる。鳩山友紀夫氏が2015年8月、韓国の西大門刑務所跡で日本の植民統治に対して誠実な謝罪をしたことはそのような意味で大変評価できることであり、敬意を表する。
日本人の加害者意識の欠如は領土問題においても見られる。韓国聖公会大学のクォン・ヒョクテ教授は、「日本では植民地の問題と分離して領土問題を見る傾向が強い」と言う。日本が領土と主張する場所は、全て19世紀後半以降日本が帝国をどんどん拡大させる過程で生じたものであり、現在の論争はその植民地化の歴史の文脈で捉えなければいけない。「東アジアの領土紛争は基本的に日本問題であり、日本帝国主義の問題だ。」とクォン氏は言う(『プレシアン』2012年末インタビュー)。
日本帝国拡大の中で強制併合された国や地域には当然沖縄も含まれる。独立を含め、沖縄と日本の今後の関係については沖縄内でも多様な意見があるが、いまだに植民地状態から解放されず、日本が合意した日米安保の基地負担の大半を沖縄に押し付けていることについては、沖縄の大半の人々が不平等であり差別であると感じている。それなのに日本のリベラルとされる人たちの多くは、沖縄との「連帯」をいとも簡単に口にする。日本人の沖縄への加害意識の欠如は、他の被害国・地域に対するそれを上回るものであり、それ自体が継続する植民地主義を象徴している。
作家の目取真俊氏は、『沖縄「戦後」ゼロ年』(2005年、NHK出版)において、元日本兵が、中国で行った残虐行為については反省したり、謝罪したりした記録は相当数あるが、沖縄戦における住民虐殺については「どうして謝罪や反省、検証をする兵士がいないのか」と指摘し、「そこに露呈するのは、日本人の沖縄人に対する根深い差別感情なのではないか」と問う (pp.35-6)。加害者意識の欠如は相手を被害者として対象化する能力の欠如でもある。
「東アジア共同体」構想においても、「平和の要石」として沖縄を本部にしたいという案もあるようだ。しかし沖縄を日米の軍事植民地としている状態を変えられていないどころか、新基地の阻止もできていない状況の中、どうしたら沖縄をアジアの平和的シンボルとして持ち上げることができるのか。その飛躍自体が、沖縄に対する無責任とさえ映る。
こういった傾向、また、日本人が沖縄の基地抵抗運動を「民主主義が生きている」といった言葉で美化するような傾向には、目取真氏が前掲書(pp.151-61)で指摘するような、自らの暴力(基地の強要)をなかったことにして沖縄を「癒しの地」として賛美するような植民者的姿勢が見え隠れしないか。日本人が沖縄に対してすることはまず、歴史的な植民支配、強制同化、沖縄戦でもたらした甚大な被害を踏まえた上での、戦後から今に続く軍事要塞化という自国の不正義の是正ではないのか。
この本の主題は『東アジア共同体と沖縄の視座』と聞いているが、このテーマの中には、歴史認識や植民地主義の残存における主体である肝心の「日本」が見えない。「視座」とは辞書定義では「物事を認識する立場」だ。「東アジア共同体」が可能かどうかの鍵は、沖縄を含むアジア諸国・諸地域に対し日本自身が責任ある「視座」を持てるかどうかにかかっているのではないか。
日本人として、「東アジア共同体」を共に実現させたいからこそ苦言も含めて提言をさせていただいた。
のりまつ・さとこ
ピース・フィロソフィー・センター代表、『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター、「バンクーバー九条の会」世話人。1965年東京出身。1982-84および1997年以降、通算20年カナダ西海岸に在住。編著『正義への責任―世界から沖縄へ①』(琉球新報社、2015年)、共著『沖縄の〈怒〉-日米への抵抗』(法律文化社、2013年)、『よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃないか!』(金曜日、2014年)他

初出:「ピースフィロソフィー」2016.06.07より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2016/06/80-us-scholars-including-chomsky-and.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0266:160607〕