ロシア革命史の泰斗、イギリスの歴史家E・H・カーは、その著「歴史とは何か」で述べています。「歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」と。歴史とは、我々の外に客観的に存在する過去の出来事の、たんなる集積とか記録とかではなく、現在の我々が過去に訪ね入って問いかけ、それへの応答として成立してくる、一定の意味と価値を持つ過去の人間的事象というのでしょう。
哲学の古典的作品も歴史に属するものである以上、歴史一般へ向かうのと同様の態度が貫かれていいと思います。たとえば、ヘーゲルの「法(権利)の哲学」であれば、我々は現代の切実な課題を携えて、ヘーゲルのもとに赴き、ヘーゲルの言うところを極力正確に理解するよう努めつつ、あわせてたえず問いかけ対話をして、課題への答えやその手懸りを引き出していくのです。
ほんの一例として述べれば、現代の最もアクチャルな問題とは、支配的イデオロギーとしての新自由主義に強力に支えられて、一握りのグローバル金融資本やIT資本(ビックテックら)が世界を股にかけて搾取と収奪を強め、結果として貧富の格差拡大、コミュニティの分断と解体、諸個人のアトム化と孤立化がとめどなく進行し、民主主義の危機、ヒューマニティの危機が深刻化していることでしょう。
こうした現代の問題状況に立ち向かう上で、ヘーゲルの市民社会・国家論のなにが、どこが我々の役に立つのでしょうか。あくまで私の個人的見立てすぎませんが、へーゲルの卓見は、近代的個人の自立・個体的自由の意識は、近代市民社会の富と成熟が生み出したものでありつつ、だがその同じコインの裏側の現象として深刻な貧困が生み出され、社会が分断され、人倫の危機を招来するとしているところです。ヘーゲルは、こうした事態を生み出す根本原因として社会的分業の発展あるとし、「市民社会は富の過剰にもかかわらず,十分には富んでいないことが,すなわち貧困の過剰と賤民の出現を防止するほどに十分な資産をもっていないことが暴露される」(§245)と喝破します。問題は富の量というより質の問題、つまり市民社会での富の生産と分配の在り方にあることを示唆しますが、ヘーゲルの追究―市民社会の社会・経済的メカニズムの内在的究明―はここで途切れ、いっきにユートピアとしての国家に問題解決が託されます。貧富の分裂、個と全体との分裂から国家は市民社会を救い上げ、人倫共同体の普遍性のもとに諸個人を包摂し、今日風の言い方をすれば、個人の人格的自由の擁護と市民的公共圏の確立という一個二重の課題の解決をめざすのです。この意味で、ヘーゲルの探究は、我々の今日の課題(チャレンジ)と見事にオーバーラップします。
ユートピアとしてヘーゲルの国家構想は、逆説的でありますが、今日の福祉国家(社会国家)の先駆をなすものであること。その意味で、よくも悪くもヘーゲルの国家観は、ドイツの公的生活の伝統に根付いたといえますが、そのことの論証も課題としたいところです。
記
1.テーマ:ヘーゲルの市民社会論
中央公論社「世界の名著」の「ヘーゲル・法の哲学」から
第二章 市民社会(§182~§256)を講読会形式で行ないます。今回は§273からです。
★国内では数少ないヘーゲル「法(権利)の哲学」の専門家であり、法政大学で教鞭をとられた滝口清栄氏がチューターを務めます。
1.とき:2025年6月28日(土)午後1時半より
1.ところ:豊島区東部区民事務所・集会室(3階の3)
――JR大塚駅(北口)より、徒歩5分(巣鴨警察署横)

1.参加費:500円
1.連絡先:野上俊明 E-mail:12nogami@gmail.com Tel:080-4082-7550
参加ご希望の方は、必ずご連絡ください。
※研究会終了後、近くの居酒屋で懇親会を持ちます。