前回学んだ、国家と宗教の関係を論じている§270には、次のような文章がありました。
「真なるものとは、・・・内なるものが外なるものへ、理性の構想が実在性へと踏み越えてゆく巨大な歩みである。そこにおいて全世界史は孜々として励み、その労働を通じてこそ人類は陶冶されて、理性的現存在である国家機構と法律との現実性および意識をかち得てきたのである」
【強調部の読み下し=(人類は)労働を通じて国家機構や法律を理性的(合目的的、合法則的)に改造してきたが、そのことの意義を自覚したうえで行なってきたのである。】
ここでいう労働は、直接的労働はもとより精神的文化的な労働を含む営々たる人類の総合的な営為を表しているでしょう。そしてその営みを通して、世界史において、人類は「自由の意識における進歩」をかち得てきたのだと、ヘーゲルはいうのです。しかし、ポスト・モダン的感覚になじんだ人には、なんという素朴な進歩主義史観であることか、こういう気宇壮大な物語はもはや現代では通用しないと反論したくなるでしょう。なるほど現代資本主義が総じて行き詰まり、不安定さと閉塞状況が蔓延するなか、ソ連型社会主義没落の後遺症もあり、社会主義を未来社会のオルタナティブとして掲げることが困難になっているがゆえに、ポスト・モダン的反発を一概に退けられない思想状況にあります。
じつはポスト・モダン以前に、ヘーゲル―マルクスのgrand theoryに異議を唱えた思想家がおりました。その一人は、ハイエクらと同じオーストリアの知的サークルから出発した、カール・ポパーという分析哲学の祖たる哲学者です。戦後左翼陣営が西側世界でもそれなりに力を有した時代、彼らにとり最も手ごわい論争相手とみなされました。ポパーは、ヘーゲル・マルクスの全体論的認識論(holism)はファシズムやスターリニズムの全体主義に通じるものであり、これからの社会哲学の目標は、piecemieal social engineering(漸進的社会工学)でなければならないとしました。資本主義という構造全体の認識は不可能であるとする立場は、要は資本主義体制にとって代わる体制は考えられない以上、その部分的改良に科学認識は貢献すればよいとするものでした。
また「全体主義の起源」や「イエルサレムのアイヒマン」という著作で有名な。ユダヤ人政治哲学者ハンナ・アーレントは、マルクスの哲学は人間を奴隷化する労働中心の哲学でしかないと批判しました。マルクスの労働哲学は、ヘーゲルのそれを継承したものですから、アーレントの批判はヘーゲルにもあてはまるものでしょう。アーレントは、アリストテレスら古代哲学者の労働(蔑視)観を踏襲します。奴隷労働や職人的制作活動を賤しいものとみなす一方、ポリスにおいてもっぱら公共的活動に従事する市民たちを、本来のあるべき自由な人間とみなしました。つまり、アーレントは、労働ではなく活動的生活(vita activa)、すなわち古代アテネのポリス的活動に範をとり、公共圏における自由な政治的(ポリス的)活動を称揚したのです。しかし、人間が生きていくためにはパンが必要であり、そのためには労働が不可欠ですが、それを公然と賤しいとしたのでは、社会共通の倫理など成り立ちません。ホロコーストの執行者アイヒマンを評して「悪の凡庸さ」と特徴づけたことで、世界中のユダヤ人社会から総スカンを食ったことといい、彼女の特異な見解は、鬼面人を驚かせるところがあります。ただアーレントの「活動的生活」論は、のちのハーバマスらの市民社会と公共圏の理論へとつながっていくという意味では、一部時代を先取りしていたのかもしれません。
さらに、アメリカの文明批評家ルイス・マンフォードは、マルクスの理論は、精神的文化的活動を経済的要因に還元する労働一元論であると批判しました。唯物史観に激しい反発を示したマンフォードですが、その思想的な核心はマルクスと通底することの方が大きいと思います。彼の視野の広いヒューマニスティックな都市計画論や文明社会理論は、今日なお輝きを失わない古典的な理論として通用しています。
三者に共通するのは、かれらが批判する際念頭にあったのは、マルクスそのものというより、マルクス主義のロシア的形態であるスターリン主義だったものと思われます。スターリン批判が公然化するまでは、スターリン主義(マルクス・レーニン主義)が正統派マルクス主義として圧倒的権威を持っていましたから、それ以外のマルクス主義の形態があるとは想像もできなかったでしょう。かれらはスターリン批判以前に、第二次世界大戦前後のみずからの経験を通じて、ロシアン・マルキシズムのいびつさ、非人間性を洞察して批判したのです。実際、スターリン主義的な労働哲学は、表向き労働に特権的価値を付与することによって、一国の総労働を共産党独裁の統制下におき、強制労働や剰余労働の搾取、勤労者の(自己)疎外状況の実態をカムフラージュする役割を果たしたのです。
寄り道が過ぎました、冒頭へ還りましょう。ヘーゲルの労働概念は、市民社会における構造的機能と、歴史における通時的機能の二つを併せ持っているようです。まず、イギリスの古典派経済学から学んだ労働概念を通して、分業と交換の相互依存の経済システムの再生産過程として市民社会の動態が捉えられます。そしてその動態を支えるものとして、占有、所有、契約(相互承認)、法律=司法といった法制度が重層的に展開されます。個々人の私的労働は、こうした過程を通じて一社会の再生産へ寄与するという意味で普遍的(共同体的)意義を帯びてくるのです。しかし、私的労働が生み出す市民社会内での貧富の格差という根本矛盾は解決せず、国家の領域にそれは委ねられるとします。
もうひとつ、歴史貫通的な働きをする労働概念は、前述の経済学的な概念から哲学的普遍化を経たもので、世界史を駆動する根源的な力です。冒頭の引用文はこの意味での労働を表しています。それは世界史を貫く累積的(cumulative)な教養・文化形成力とも言い換えられるものです。マルクスの唯物史観のように、社会構成体の内部矛盾による交代までは着想されていません。しかし、冒頭に引用した一文から推察されるように、世界史の舞台における東方から西方への文明の主役交代を深部において促す駆動力は、(形態変化する)労働によるものとかんがえています―いうまでもないことですが、歴史過程の真の主体は、ヘーゲルにおいては「精神」であって人ではありません。
若きマルクスは、ヘーゲルの哲学的労働概念を継承し、よってもって先進資本主義イギリスの経済的現実に立ち向かい、そこから生み出されたのが、疎外論を構成原理とする批判的経済学でした。それからマルクスは、1848年革命の挫折を踏まえて、亡命先のロンドンにて本格的な経済学の刷新と理論化に努め、やがてその労苦は「資本論」へと結実します。資本制社会における富を生産する労働の特殊な形態と経済的機能を解明し、それによって資本制生産様式の限界を論証することになります。
我々としては、ヘーゲルやマルクスを学ぶ意義は、ポスト・モダン的閉塞から脱し、一国的にもグローバル規模でも行き詰りつつある世界を眼前にして、やはりより巨視的な視野と展望でものを見るクセをつけることにあるのではないでしょうか。そして、マルクスを意識しつつも、当面は「法権利の哲学」という眼前の宝の山の探究に注力して、旧い世界の構造と決別して新しい精神のはじまりとなりうるような珠玉を一つでも二つでも採掘し我がものにできれば、我々のつたない努力は十分報われることになるでしょう。
記
1. テーマ:ヘーゲルの市民社会論
中央公論社「世界の名著」の「ヘーゲル・法の哲学」から
第三章 国家(§257~§360)を講読会形式で行ないます。今回は§270内p.503からです。
★国内では数少ないヘーゲル「法(権利)の哲学」の専門家であり、法政大学などで教鞭をとられた滝口清栄氏がチューターを務めます。
1. とき:2025年2月22日(土)午後1時半より
1. ところ:文京区立「本郷会館」Aルーム
――地下鉄丸ノ内線 本郷三丁目駅下車5分 文京区本郷2-21-7 Tel:3817-6618
1.参加費:500円
1. 連絡先:野上俊明 E-mail:12nogami@gmail.com Tel:080-4082-7550
参加ご希望の方は、必ずご連絡ください。
※研究会終了後、近くの中華料理店で懇親会を持ちます