【5月25日(土)】第15回 ヘーゲル研究会のお知らせ

 先の研究会で、出席者の一人から、ヘーゲルの「法哲学」市民社会論の叙述は、プロイセン等ドイツの現実を述べているのか、あるいは理想化した現実・あるべき現実を述べているのか、そのどちらであろうか、という疑問が提出された。これは、ヘーゲル法(権利)哲学の、ある種本質にふれる貴重な疑問ではないかと直観した。そこで少し考えた。この疑問の答えの手懸りは、「法(権利)哲学」の序文の有名な一句「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」にあるのではないかと、閃いた。この一句、研究者の間でも解釈が分かれているので、単純な理解は不可であろうが、思想なり哲学なりが、現実を扱う際の、その理論的方法の視座を示唆するものとして受けとめた。
 日常的意識に映じるありのままの現実は、そのままでは真実とは言えない。たとえば、マルクス用語に虚偽意識というのがある。あるいはF・ベーコンのイドラ(偶像)論―因襲的な意識につきまとう種々の偏見―にまでさかのぼっていいであろう。無反省の日常的意識には現実は真実どころか倒錯したり歪曲されて映じ、真実は隠ぺいされる。だからこそ現実の日常的表層を突き破り、真実に達するには思想の洞察力や科学の分析能力が必要とされるのだ。現実に分け分け入って、その深層で持続的に働く理性的なもの(合理的、合法則的なもの)を発見すること――これをヘーゲルは「現実的ものは理性的である」であると表現した。そして理性的なものは、当初萌芽的であっても、やがて現実全体を支配するものへと発展する――これを「理性的なものは現実的である」と表現した。したがって、この解釈で行くと、ヘーゲルの市民社会論は、プロイセン等ドイツの現実を相手にしながら、そのなかに、場合によっては萌芽形態にすぎないにせよ、理性的な発展方向を見定めながら法的事象を分析・整序し、意義づけていっていると理解される。ナショナルな土壌に即しつつ、西ヨーロッパ先進諸国がたどってきた近代的「法治国家」の道をドイツもまた踏襲するものとして、叙述されているのではなかろうか。さらにその観点をバックアップするものとして、「(世界史は)自由の意識における進歩である」という普遍史的な歴史哲学・歴史観があることは周知のとおりである。しかもヘーゲルは先進的な法理論を哲学的に単に跡づけしたのではなく、国家―市民社会という近代社会の構造的理解に大いに資する(独創的)枠組みを提供した。いずれにせよ、ヘーゲルの掲げる「理性国家」という理念に、我々の直面する今日的課題に対し、どの程度理論的参照枠frame of referenceとしての意義があるのかないのか、そのことも念頭に措いて読み進んでいきたい。

                       記

1. テーマ:ヘーゲルの市民社会論
  中央公論社「世界の名著」の「ヘーゲル・法の哲学」から
  第二章 市民社会(§182~§256)を講読会形式で行ないます。今回は§239からです。
★国内では数少ないヘーゲル「法(権利)の哲学」の専門家であり、法政大学で教鞭をとられた滝口清栄氏がチューターを務めます。
1.とき:2024年5月25日(土)午後1時半より

1.ところ:豊島区東部区民事務所・集会室2(3階)

――JR大塚駅(北口)より、徒歩5分(巣鴨警察署横)

1.参加費:500円

1.連絡先:野上俊明 E-mail:12nogami@com Tel:080-4082-7550
  参加ご希望の方は、必ずご連絡ください。
※翌日は「ちきゅう座」総会がありますので、研究会終了後の懇親会は省略します。