確かに、表向き「LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)=性的少数者」がここまで社会的に認知されてきた時代だからこそのドキュメンタリー放映なのだと思う。本名や素顔を当たり前に現わしている当事者たちの、正直な想いを赤裸々に語っている姿が微笑ましく逞しい。多くの人に見て欲しいし、再放映も期待したい。
ただ、それにしても、抱える問題は多い上に、悩みも尽きない。その上、社会の多数派が依拠している「制度」(民法・家族法や戸籍、不妊治療のシステムなど)が大きな桎梏=壁になっている状況下で、「カラフル・ファミリー」のタイトルは、私にはやはり時期尚早、まだまだ眩しすぎると思えた。それでも、トランスジェンダー(性別違和・FtoM、女性から男性)の杉山文野さん(37歳)の構えのない素直さが素敵だし、連れ合いの今井ほのよさん、さらに子作りのための精子提供に応じた松中ゴンさん(42歳)の飾らない正直さにほだされて、「カラフル・ファミリー」の命名はとりあえずOKとしよう!今後に向けて心から応援したいと、いまは思っている。
文野さんとほのよさんとの出会い、それぞれの「両親」との確執
文野さんは1981年生まれである。埼玉医科大学病院で、初めて「性同一性障害」者の性別適合手術の成功が公にされたのは1998年10月、武田鉄矢の「3年B組金八先生」の連続ドラマで、「性同一性障害」に悩む鶴本直役を上戸彩が好演したのは2001(平成13)年12月である。
少しずつ、「性的少数者」にスポットが当たり始めた時代に、文野さんは思春期、20代を迎えているが、「彼」(性自認としては男性ゆえに)は、「自分を偽ってしか生きていけない」と思っていたと言う。「だったら、30歳くらいには死んでもいいのかな~」とも。
それでも、18歳の時に、まずは父親にカミングアウト。「ふう~ん、そうなの?!」とチンプンカンプン。母親には、初めて付き合った彼女を家に連れて来て、分かってしまったが・・・ともかく、「理解してもらえるまでに数年かかった」そうだ。
現在の連れ合いである今井ほのよさんは、初めてのデートでそのまま「恋人モード」。そして、彼女は振り返って、「文野さんが生まれやからだ的には女性であるとか、今の性自認としては男性であるとか・・・気にはならなかった」と述べている。幸運な出会いである。
しかし、ほのよさんの両親に文野さんを紹介し、二人の交際を報告するや、凄まじい猛反対、拒絶に出会うことになってしまう。
「そっちの世界に引っ張り込まないでくれ!」とか「とにかく別れろ!」の一点張り。
「二人でちゃんとやって行きますから・・・」と言っても、「そんなことじゃないの、ダメなものはダメ、ダメダメダメ!ムリムリムリ!」「うちの子はうちの子なの、これ以上は誘わないで!」「頭坊主にしてお遍路に行って、心、改めなさい!」とも。
ここまで言い張る母親に、ほのよさんは悲しくて、涙が止まらなかったと。また、文野さんに「申し訳ない」と思っていたそうだ。この、ほのよさん側の両親の反対・拒絶はその後6年間も続いた。
しかし、文野さんは言う。「自分の親だって分かり合うのにすごく時間がかかったのに・・・ましてや彼女のお母さんからすれば、他にもこれだけ選択肢があるのに、なんでそこに行くのよって(思うでしょうね)・・・」「こんなに手塩にかけて育てた子どもが不幸になってしまうんじゃないかと反対するのも無理はないですよね・・・幸せになって欲しいだけですから、子どもに・・・」「そうやって否定される気持ち、僕は可能な限り分かろうと思って・・・」
何という粘り強さだろう。この社会の多くの人がもっている「常識」=すなわち「性的少数者」は特別であり「不幸」であるという根強い「偏見」や「差別」に、「怒り」を持って対するのではなく、可能な限り「理解」しようと努めたのである。
それには、文野さん自身が言う「バトンを渡す」という、「人から人への広がり」を心底信じて、粘り強く実行したからであろう。ほのよさんがしみじみと言う。
「LGBTの当事者が抱えていたものを、やさしくバトンを渡すように、まずほのちゃんに行って、それからお母さんに行って・・・と、文野さんが言うのを聞いて、あぁ、なるほどなって。文野さんのこういう人生を私たちはシェアしたんだな、私は、バトンを渡されたんだ、よし!」と。
二人で子どもを持つ、という段階に至って、「あれまでの反対は何だったのか、というぐらいのフレンドリーさだね」、そしてほのよさんが、「(あの人たち)もう忘れちゃったのかな・・・忘れさせてあげてね」と言うのに、文野さんも「ウン、そうだね」と相槌を打ちつつも、「うちらも忘れたいじゃん」とほのよさんが漏らすと、すかさず文野さん、「いや、ボクは覚えているよ、ハハハですよね」と。
文野さんにとって、多数派の人々の偏見・差別は、いま現在もなお、体験し続ける「現実」なのであろう。
「子どもを持ちたい」と思うようになって― 精子提供者ゴンさんとの関わり
現在では、婚姻届けを出した合法的な夫婦の間でも、さまざまな理由で「子どもを産めない」例は少なくない。しかし、「嫡出子」にこだわる家制度が根強かったためか、今でも、里子や、普通養子縁組・特別養子縁組で「子どもを持とう」とする夫婦は、欧米に比べて多くはない。その代わり、法の整備がなかなか整わない中で、夫婦以外の精子提供(AID)や、代理母などのケースやトラブルなども目に付き、多様な「不妊治療」や「生殖医療」がじわじわ増えている状況である。
だが、これまた「同性同士のカップル」については、LGBTが認知されてきたとはいえ、日本では「結婚=夫婦」の縛りがきつく、未だに充分な「同性婚法」は制定されていない。わずかに、文野さんも関わっている渋谷区などで「同性パートナーシップ証明書」が発行されている程度である(他に世田谷区、中野区など)。
(*世界的には、同性婚が認められている国は、2001年のオランダに始まり、ベルギー、スペイン、カナダ、オランダ、フランス、英国、米国、ドイツ、台湾など、28ケ国に及ぶ。2020年5月現在)
その意味では、「実質のカップル」である文野さんとほのよさんが「子どもを持ちたい」と思い始めたのだが、現実の壁は厚い。文野さんは性自認としては「男性」であるが、身体的には精子を持たない。正式な「不妊治療」として病院に行ったとしても、戸籍上「夫婦」でない二人には適用してもらえない。そこで、長年の友人でもあり、彼自身は「ゲイ」である松中ゴンさんに「精子提供」を頼んでみた。すると、「ゲイ」として生きようとした時に一旦は「自分の子ども」を諦めていた彼が、「うん、いいよ、ボクも関わってみたい」ということで承諾した。そして、自前の精子注入方法で、何と妊娠成功となったのである。これまた、色々な意味で幸運だっただろう。
ところで、「第三者からの精子提供による人工授精(AID)」は、日本では、1948年から慶応大学医学部付属病院で、院生の精子を使って内々で行われてきたことは有名?である。「内々」ということで、営利ではなかっただろうが、提供する方もあくまでも「匿名」、つまりは便宜の供与ということで、自分の精子が関わった子どもの存在やその行方に関しては一切関知しない秘密裡でのことであった。院生の精子を受ける夫婦の側も、すべて「内密」ゆえに、戸籍には「実子」として記載されていた。
生まれて来る子どもの「ルーツ」や人権を考えると、あまりにも乱暴かつ無責任なAIDが続けられてきたのである。
その意味では、文野さん、ほのよさん、そしてゴンさんの3人によるAIDは、信頼に基づき、責任を共有しようとする誠実さに溢れている。
しかし、女の子「ある」ちゃんが生まれて、具体的な日々の子育てが始まると、ゴンさんの「責任」をめぐって、それぞれに戸惑いが生じて来る。子どもは、確実に日々共にする生活と時間の中で、「大事な人」「懐く人」との関係を育むものである。
月に2,3回、「あるちゃん」と接するゴンさんは、当然ながら、沐浴、おむつ替え、哺乳瓶での授乳などで戸惑ってしまう。「責任をもって関わりたい」という誠意あるゴンさんの気持ちが、現実の中で宙を舞う。
だが、この3人の関わりはしぶとく健気である。文野さんの中にあるゴンさんへの嫉妬、ほのよさんのなかのゴンさんへの「モヤモヤ」、そしてゴンさんの中途半端さ。それらを正直に口に出し合いながら、「母」「父」「もう一人の父」などと、既成の夫婦や「家族」に囚われていたことに気づきつつ、「ゴンさんはゴンさん」でいい、ということで、今は、週2回ほど「あるちゃん」と出会い、週1回、保育園への送りを担当している。
「あるちゃん」の成長に従って、また文野・ほよの・ゴンの三人それぞれの状況の変化に従って、これからの4人の関わりがどのようなものになって行くのか、おそらく、「家族」って何だろう?・・・と問いかけながら、時間を相互に重ねながら、彼らなりの「家族」を手探りしていくのだろう。周りの人々、そして制度もまた、彼らを支えられるように変わっていくことを望みたい。
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