いま、各地で大学歌人会が立ち上げられ、隆盛を極めているようだ。老舗の京大短歌会、早稲田短歌会など、現在は、学生であれば、在学大学にこだわらないかなり自由な短歌会のように見受けられる。その大学歌人会同士の交流はどうなっているのだろうか。
私の学生時代には、たしかに、在京の大学の歌人会の合同歌会などが開かれていた。断捨離のさなか、その片鱗をただよわせる資料がいくつか出てきた。
私が入学した1959年、今はすでに消えた東京教育大の短歌会の上級生に、前川博さん、林安一さんがいらした。同期には、野地安伯さん、津田正義さんがいた。すでに卒業していた岩田(森山)晴美さんいらしたことも知ったのだった。
私の短歌研究会のノートは、59年5月19日に始まっている。週火・木とE館212教室で開かれ、多いときは十人、少ないときは四・五人のときもある。黒板に各人が発表する短歌を眺めての合評会だった。
・いくすじか野火のけぶりのたゆたひて桧木林にうすれ行くな
り(野地、5月19日)
・ビルの壁に囲まれて地の小暗きにあそべる鳥のかげ光れをり
(林、5月19日)
・中古車の並ぶ広場を投げやりに小さきあくびする男の去りぬ
(内野、5月19日)
・てらてらと照れる椿につながれて茶色の牛が動きつつ居る
(津田、5月21日)
・ああ五月車輪の下にあお向けの少年の頬に地の熱かよう
(前川、5月26日)
野地さんは、現在『白路』の代表である。林さんは、私も入会した『ポトナム』の先輩でもあり、後、『うた』に移っているが、亡くなられている。津田さんの上記の歌は、「毎日歌壇」の佐藤佐太郎の選に入ったと知らされ、驚いたのだった。津田さんは、現在でも、ペンネームで「毎日歌壇」や東京新聞の「東京歌壇」にたびたび登場する常連でもある。前川さんは、寺山修司張りの作品が多く、異彩を放っていた。津田さんも前川さんも俳句との二刀流で頑張っているようである。いま手元には、ガリ版刷りになった「作品集NO1(1960年4月)」「NO2(作成年月不明)」があり、さらに『ポロニア』という小冊子は、私の在学中に、1号(1960年2月)から7号(1962年12月)までが確認できる。
なお、大学歌人会といっても、ささやかな歌会ではあったが、1959年には、國學院大學、二松学舎大学と三校の合同歌会を開いたり、ときには、國學院との二校で、新宿の「トキヤ」や市ヶ谷の「カスミ」の隅で、小さなテーブルを囲んでの歌会だったりした。それが私に灯っての大学歌人会だった。その記録が数枚残っていた。わら半紙というのか、仙花紙というのか、今ではまっ茶色になって、折り目や端からボロボロと崩れるように劣化してしまった紙に、謄写刷りなので、かなり読みにくい。その上、私のメモが混じっているので、コピー機で調整をしても限界がある。
1959年6月13日(土)に東京教育大学で開催された「歌会詠草」には15人が出詠、二人が欠席で、プリントの余白には、着席順までメモしてある。それによれば、参加者は、以下の通りである。
国学院:藤井常世・山口礼子・平田浩二・高瀬隆和・岸上大作・鈴木・西垣
教育大:前川・林・野地・山西・鴨志田・津田・内野
中央大:島有道、不明:尾島
詠草の上に作者名が、下には互選の点が書き込まれている。高点歌を見ると、以下の通りだった。藤井常世さんも参加されていたことがわかるが、私の記憶はすっかり飛んでしまっている。
・かなしみに溺れてはならぬ危ふさに坂道尽きし海が美し
(山口礼子)8点
・おそいくる錯乱はげし冬の地図いづこにも黒き墓標を認む
(高瀬隆和)6点
・告げむと思ふこと多けれど告げず来ぬその眸の翳り気にかかりつつ(藤井常世)5点
ちなみに、拙作「軍談に花を咲かせる先輩は短き煙草を厳しく吸いぬ(内野)」は4点、「愛葬る日の華麗にてわが裡にも豊子が蒔きし種子は育てり(岸上大作)」は2点であった。この歌会と時を置かずに開催されたのが、阿部正路さんと清水二三 恵さんの出版記念会を兼ねた「明日を展く会」(1959年6月27日、高田馬場「大都会」)で、大学歌人会の主催であった。
上記写真については、つぎの過去記事を参照ください。
60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年(2020年1月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/01/post-8ad825.html
また、59年10月24日(土)に国学院大学で開催された「教育大・国学院・二松学舎三大学合同作品合評会」のプリントによれば、出詠は29首というから、にぎやかだったに違いない。参加者は以下の通りだが、今となってはフルネームが分からない作者が多い。
国学院:女川務・岸・榎本・篠田・志村・山口礼子・鈴木・近藤・山本・岸上大作・鈴木・平田浩二・三浦(篠田・山本作品なしか)
二松学舎:林・丸山・上園・斎藤・伊藤・巣山・那珂・出浦・岩崎・山田・鶴田
教育大:林安一・前川博・津田正義・鈴木通代・山西明・野地安伯・内野光子
高点歌は以下の通りで、二松學舍勢が強かった。
・雪にわが喀きたる血の緋まざまざと熾烈なるかなわれをはなれて
(二松学舎、鶴田)6点
・窓の外に蜘蛛さかさまにぶらさがり四肢動かざるままの夕やけ
(二松学舎、林)5点
ただ、プリントの中央の一首が7点入ったらしいのだが、歌も作者も判読できない。もしかしたら、「真夜中の浅瀬に佇てばわが翳も清き流れの中にまぎるる(山口)」と読めないこともない。とすると山口礼子さんの作品か。私の一首と言えば、恥ずかしいのだが、何とも荒っぽい、稚拙な・・・。言葉もない。「デモ終えて広場の隅に十円の硬き氷菓をせわしく食いおり」なのだが、それでも3人が入れてくださっていたのである。
1960年以降の資料がない。どの大学も安保闘争で、騒然としていたのだろう。大学の短歌会の交流どころではなかったのかもしれない。6月15日、学生のデモ隊が国会内に突入、警官隊と衝突、樺美智子さんが死亡した事件、安保条約の自然承認を経て、安保闘争は次第に停滞していったのだが、夏休み明けに、林安一、岸上大作、高瀬隆和、田島邦彦さんたちにより『具象』が7月に創刊されたのを知った。私などはどこか置いてけぼりを食ったような感じがしないでもなかった。そして、岸上さんが、その年の12月に自死したのを、年明けに知ったのだった。
また、残っているプリントによれば、1961年6月17日、國學院大學において「三大学合同歌会」が開催されている。28人が出詠しているが、この三大学はどうも、國學院大、教育大、中央大らしい。というのも、「昏れなずむ机の上に灯を点ける懐疑も愛へひとつに武器か(田島)」とあるので、田島邦彦さんではなかったのか。もうひとり、「加藤」の名の下に「中」とあるからである。国学院のメンバーもかなり入れ替わり、変わらないのは教育大の野地、津田さんと内野の3人であった。メモの不備で、私の歌がどれだかわからない?!。
野地さんや津田さんは、この頃のことを覚えているだろうか。かくして、私の大学歌人会交流は、終わったようなのである。
初出:「内野光子のブログ」2024.11.25より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/11/post-cd58c5.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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