発足からわずか1週間の野田内閣で、鉢呂経済産業相が辞任した。辞任に追い込んだのは、鉢呂氏の「失言」を追求したメディアの報道だった。しかし一連の報道の中身はあまりにひどかった。これが日本のジャーナリズムのありようだとすると、暗澹とした気分にならざるを得ない。
8日に野田首相とともに福島県の原発事故被災地を視察した鉢呂氏は、9日の閣議後の記者会見で視察の印象を語った。そのなかで、人っ子一人いない市街地の様子を「まさに死の町のようなかたちだった」と表現したことが、被災地の人たちの感情を逆なでするものだとして「不適切だ」と批判された。批判を受けて鉢呂氏はその日のうちに発言を撤回し、謝罪した。
ところが10日の朝刊各紙は鉢呂氏の「もう一つの失言」を問題にした。8日の深夜、夜回りに来た10人ほどの記者と議員会館の前で囲み取材を受けた際、毎日新聞の記者に防災服の袖をすりつける仕草をして「『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言をした」(毎日)というのである。他の新聞はどうやら毎日を後追いしたものと思われる。毎日は1面トップのほか、2面、社会面トップにも関連記事を載せて、大きく扱った。他の各紙も1面で扱うなど、大きなニュースに仕立てていた。
各紙ともこれで鉢呂氏に対する「批判が出るのは必至」「進退問題に発展する」などの見通しをそろって報じていた。そしてその見通し通り、その日の夜には鉢呂氏が辞任を発表する展開になった。翌11日の読売、日経、産経各紙は「経産相の辞任は当然、首相の任命責任も重大」と早々に辞任を支持する社説を掲げた。
報道のひどさが際立ったのは「放射能」発言をめぐる記事だった。まず、鉢呂氏の発言が実際にどうであったかがはっきりしない。各紙が引用した鉢呂氏の言葉がまちまちだ。朝日は「放射能つけちゃうぞ」、読売は「ほら放射能」、東京、産経は「放射能をうつしてやる」。わずか10文字にも満たない言葉なのに、一致しない。毎日に至っては、鉢呂氏に声をかけられたのが自社の記者だったというのに、「『放射能つけたぞ』という趣旨の発言」と、わざわざ「趣旨」とことわる不自然な書き方をしている。当の鉢呂氏も記憶にないと言っているから、真相はやぶの中だ。要するに、新聞が問題としている発言そのものがはっきりしない。この程度の事実をもとに閣僚の責任など、どうして問えるのか。
仮に毎日の報道した通りの発言があったとしても、どのような文脈でその言葉が語られたのか、記事を読む限りではわからない。「防災服をこすりつけるような仕草をして」というだけでは、鉢呂氏がどういう意図でその言葉を発したのか、推し量ることもできない。しかし新聞報道も、それを受けた与野党の政治家諸侯も、まるで鬼の首をとったかのように「閣僚としてあるまじき発言」などと息巻いている。夜回りの記者に対して鉢呂氏が見せた言動のごく一部を垣間見せられただけで、発言の状況や文脈を確かめもせず「閣僚としてだけでなく、人間として不適格」(石破自民党政調会長)などという、それこそ軽はずみな批判がどうしてできるのだろう。
政治家のお粗末な対応はさておき、問題はメディアの報道にある。前述のように各社の報道した鉢呂氏の発言内容が不確かな上に、その後、記者の側が当事者に発言の中身や真意を再確認する努力をした形跡がない。非公式な夜回り取材の場で(朝日によれば)「冗談まじりで」鉢呂氏が見せたという言動を、その進退を問うほどの問題として取り上げるなら、事実関係を十分確認し、本人の言い分も聞いたうえで報道するのがジャーナリズムの基本だろう。その基本を踏んだ取材をした様子が(少なくとも)紙面に載った記事からは読み取れない。この点は、先頭を走った毎日だけのことではない。後追いしたと思われるほかの各社も、確認や検証をしているようには見えない。
毎日は10日の朝刊社会面で、この失言に対する被災地福島の声を伝えている。「ふざけるな/あきれ、怒りあらわ」という見出しで、福島県民の怒りを紹介している。しかし福島で取材した記者は取材対象に鉢呂発言の内容や状況、文脈をどのように伝えて、声を聞いたのだろうか。鉢呂氏を取材した当事者の記者さえ「趣旨」を理解するのが精いっぱいだった発言の「不適切さ」を、福島の記者はどのように伝えたのだろうか。おそらく「怒り」の声を引き出すのに必要な材料だけを提供して、聞きたい声を聞いたということだろう。その結果、紙面は鉢呂氏の責任を追及する空気をあおるだけのものになる。(朝日も10日夕刊社会面で、同じような記事を掲げていた)。これが公正な報道といえるだろうか。
もう一つの「死の町」発言についての報道にも問題がなくはない。これは9日の記者会見で語られたことばだから、当然その内容については責任を負わねばならない。被災地の印象を「死の町」のようだと表現したことを、被災地住民の心情を理解しないもの、と批判することはできる。しかしこの「死の町」という表現が、どのような文脈で語られたのかは、新聞報道だけではわからない。
常識的に言って、住民が避難した後の、人の姿がまったく見えない市街地を見て「死の町」と感じるのはごく自然だろうし、それをそのままことばで表現することがそれほどひどく間違ったこととは思えない。(被災者に直接語りかけるような場ではむろん控えねばならないだろうが、一般論として被災地の印象を語る際に、その種の表現を使うことが非常識なこととは言えないだろう)。
しかしメディアの取り上げ方は鉢呂経産相の「死の町」発言を「不適切」と一方的に決めつけて揺らぐところがなかった。被災地や被災者への配慮、思いやりを錦の御旗に掲げると、まったくそれに逆らえないような空気が、この問題を伝えるメディアには漂っている。「死の町」発言を問題にするのも、冗談まじりの「放射能」発言を問題にするのも、この空気ではあるまいか。
3・11以降、メディアは「被災者に寄り添う報道」を半ば震災報道のスローガンにしてきた。それ自体、悪いことではないが、今回、鉢呂氏を辞任に追いやったメディアや政治の動きの背景にこうした空気があるとすれば、メディアとしては自分たちの振る舞いによほど用心しなければならないだろう。この空気は、うっかりするとメディア自身の手足を縛ることにもなりかねないからだ。
経産相に対して「死の町」という表現を「不適切」と批判したメディアは、今後、被災地を取材した時の記事で「死の町」に類する表現を使えるのかどうか。政治家は選挙民の神経を逆なでするようなことばはなかなか発せられない。選挙民が耳にしたくない事実を口にするのははばかることになる。しかしメディアは、真実を伝えるためには、読者、視聴者の嫌がることでも伝えねばならない。被災地の人々に不快なことでも、必要な事実は提示しなければならない。それができないとジャーナリズムの役割が果たせない。
鉢呂氏を辞任に追い込んだメディアが、その区別をしっかり自覚しているのかどうか。はなはだ心もとない。被災地に寄り添うために、無意識のうちに自分たちの手足を縛っているようなことはないか。今回の鉢呂「失言」報道を見ていると、正直なところ、危うさを感じてしまうのだ。
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