あらためて、髙村光太郎を読んでみた(5)民族の「倫理」と「美」と

光太郎は、地政学をはじめ、天文学などに自然の必然があるかのような、そして数学・物理という論理と「倫理」「美」という言葉を頻用する。しかし、頻繁に登場するそれらのことばは、よくよく考えてみると無内容であるにもかかわらず、繰り返される。当時のほとんどの作品は、具体的な方策もありようがなく、民族の倫理や美という言葉を通じ、国民の士気を鼓舞するだけのものであった。

「必死の時」
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋として豊かなのは
われら民族のならひである。
(後略)
(1941年11月19日作。『婦人公論』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

「必死の時」は、太平洋戦争開始前夜ともいえる頃の40行を超える詩であるが、冒頭のこの4行が末尾でも繰り返されて終わる作品である。つぎの「新しき日に」は開戦直後の作品ということになる。

「新しき日に」
新しき年真に新たなり。
東方の光世界に東方の意味を宣す。
幾千年の力鬱積していま爆発するのみ
東方は倫理なり。
東方は美なり。                                                                                                               (後略)
(1941年12月19日作。『家庭週報』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

さらに、敗戦がもはや避けようもなくなった時期の、光太郎にとっては、敗戦直前の作品が、つぎの「勝このうちにあり」であった。

「勝このうちにあり」
(前略)
勝このうちにあり。
われらの勝や清浄(せいじょう)にして
他の無辜をいためず、自ら驕らず、
ただ民族至純の倫理動いて
おのづから人類に深き省みをあたへ
静に稀有の変革を八紘に現成(げんじやう)せんとするなり。
(1945年7月18日作。未発表か、草稿の欄外のメモに『満州良男』とある。北川『全詩稿』)

敗戦に至るまで、光太郎の作品を読んでいて、前述の「倫理」もそうだが、光太郎にとって「美」とは何だったのか。次のような作品を立て続けに読んでしまうと、やりきれなさと空しさがよぎる。「決戦の年に志を述ぶ」では、前半に、「今年六十一の老骨でも・・・むしろ数字を逆さにして 一十六から始めたい」などという個所もある。当時、これらの詩を読んだり、朗読を聴いたりした人々は、どのような受け取り方をしたのであろうか。

「決戦の年に志を述ぶ」
(前略)
この生活の一切をかけて彼等を撃ちながら
厳として美の世界を守り抜かう
老兵必ずしも老を語らない。
(1942年12月30日作。『東京新聞』1943年1月2日、『記録』収録)

「軍人精神」
今にしておもふ、
われらが軍人精神の美
古今東西にその比なし。
美ならざるはわれらが武人にあらず、
その精神人倫の極致にいたる。
(後略)
(1943年5月9日。『読売報知新聞』6月24日、『記録』収録)

「戦に徹す」
(前略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
(1943年10月26日作。10月28日放送、『記録』収録)

光太郎の戦前の単独詩集には、『道程』(1914年)『智恵子抄』(1941年)に続き、いわゆる「戦争詩」を収録したものに、先に紹介した『大いなる日に』(1942年)、青少年向きに編集した『をぢさんの詩』があり、『記録』(1944年)には、上記二詩集と重なる作品もある。いずれも、光太郎自身が「序」を記しており、その収録の選択は自身によるものである。そして、当然のことながら、どの「詩集」にも収録しなかった作品も数多く、戦時下の「詩集」に収録しながら、敗戦後出版の文庫本の詩集などには、戦時下の作品がすっぽり抜け落ちていることもある。

なお、戦時下の日本放送協会における「愛国詩」の朗読の時間で、光太郎の詩は数多く放送されたが、中でも放送回数が多かったのは、つぎの作品であった。詳しくは、坪井秀人『声の祝祭―日本近代史と戦争』(名古屋大学出版会 1997年)、近刊の別稿「『暗愚小傳』は「自省」となり得るのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりにして」を参照いただきたい。

1940年において、すでに、「欲しがりません勝つまでは」(1942年大政翼賛会などが公募した標語の当選作)などと同旨の詩が書かれていたことを知った。私は、東日本大震災後のNHKから流されて続けている歌謡「花は咲く」は、形を変えた「愛国詩」なのではないかの思いがするのだった。そして、この詩人の作品に登場する「倫理」や「美」は、現代の政治家たちがよく口にする「国民に寄り添った」「被災者に寄り添って」とか、「真摯に受け止め、再発防止に努める」「できることはすべてやる」などという発言と同様、無内容で、無策でしかなく、一過性のパフォーマンス、慰撫に過ぎない、と思われてならない。 

「最低にして最高の道」
もう止そう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止そう。
(後略)
(「大きく生きよう」を改題、1940年7月10日作『家の光』1940年9月。『大いなる日に』収録)

初出:「内野光子のブログ」2019.9.19より許可を得て転載

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