2003年10月、東京都の石原教育行政が、悪名高い「10・23通達」を発令して以来、予防訴訟を皮切りに、都(教委)を被告とする数多くの訴訟が提起されました。その訴訟の支援を軸として、日の丸・君が代への起立斉唱の強制に象徴される「教育の自由剥奪」に反対する運動が組み立てられています。
多くの「10・23通達」関係訴訟支援運動を糾合する組織として結成されたものが、「教育の自由裁判をすすめる会」。その<共同代表>が、下記の10人です。
市川須美子(獨協大学、日本教育法学会会長)
大田 尭(東京大学名誉教授)
尾山 宏(東京・教育の自由裁判弁護団長)
小森陽一(東京大学大学院教授)
斎藤貴男(ジャーナリスト)
醍醐 聰(東京大学名誉教授)
俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)
野田正彰(関西学院大学教授)
堀尾輝久(東京大学名誉教授)
訴訟を担当する者の一人として、物心両面において訴訟を支えていただいていることに厚く感謝申しあげます。
その「会」の定期総会も回を重ねて今年は第12回。下記の要領で開催されます。
日 時 12 月3 日(土) 13:30 ~
会 場 東京・渋谷区立勤労福祉会館(渋谷駅下車徒歩7 分)
第1部 総会行事
弁護団挨拶 加藤 文也弁護士
原告団報告
すすめる会活動報告・方針 人事等
第2部 記念講演
講 師 木村 草太(首都大学東京教授)
「君が代不起立問題の視点―なぜ式典で国歌を斉唱するのか?」
会は、「どなたでもご参加いただけます。」「会員以外の方も大歓迎です!」と呼びかけています。是非、木村草太さんの記念講演に耳を傾けてください。
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ところで、共同代表のお一人である醍醐聰さんが、定期総会にメッセージを送られ、これをご自分のブログに掲載されています。タイトルが、「『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を」というもの。いつもながら、示唆に富む内容だと思います。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d56e.html正確には、ブログで醍醐さんのメッセージの全文をお読みいただくとして、タイトルと3本の小見出しをつなぐことで、大意と問題提起の把握は可能です。
☆『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を
☆「内心の自由」は個人の尊厳を守る最後の砦
☆意見の違いは「認め合う」だけでよいのか?
☆「日の丸・君が代」強制に対する「攻めの運動」を
今、運動のスローガンとなっている「思想・良心の自由」擁護とは、外的な行為とは切り離された「内心レベルの自由」を権力の侵害から護ること。これは、個人の尊厳を守る最後の砦ではあるが、いま、これだけではなくもっと能動的な「攻めの運動」の必要があるのではないか。社会や権力に、各個人の意見の相違を認めさせるだけにとどまらず、活発に表明された意見の交換を通じて、公権力の政策を変更するよう働きかける権利を確立することを目的とすべきではないだろうか。つまり、獲得すべき目標は、『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』であるべきと問題提起したい。
弁護団の一員として訴訟実務を担っている立場から、この問題を受け止めて、以下のとおり、多少の釈明を申しあげます。
13年前この事件に取り組んで以来、「教育の自由」と「精神的自由」の二つの分野の問題として考え続けてきました。「教育の自由」は制度の問題です。憲法26条(国民の教育を受ける権利)に支えられ、教育基本法に明記されている、教育行政は教育の内容に不当な支配を及ぼしてはならない、とする大原則。そして「精神的自由」は、19条(思想・良心の自由)、20条(信仰の自由)、そして21条(表現の自由)の内心のあり方とその表現の人権問題です。
「君が代」不起立を、19条違反の問題として構成するか。21条問題として把握するか。実務的な感覚からすれば、ハードル低い19条問題とすることは当然でした。19条で保障された各人の思想・良心が外部に表出したものが表現ですから、21条で保障された表現行為は必ず他者と関わりを持ちます。それだけに、19条よりは21条の保障の意味が大きく、要件のハードルが高くなります。
憲法の標準的な教科書には、19条の権利保障は絶対的なもので制約はできないとするものが多いのですが、これは19条の権利性を厳格に内心に限定していささかの外部的行為も伴わないことを前提としてのことです。「君が代」不起立は、受動的なものではありますが、「不起立」という不作為の外部的行為を伴います。しかし、これは21条の表現の自由の問題ではない。19条の思想・良心の保障に不可避的に付随する態様のもので、これも19条の絶対的な権利保障の範疇に入るものとして考えるべきだと主張したのです。これが、アンコをごく薄い皮一重で包み込んだ「薄皮まんじゅう」をイメージしての「薄皮まんじゅう理論」。アンコが「(内面の)思想・良心」、その自由を護るために不可欠の薄皮一枚が「不起立」という受動的な身体的所作。薄皮一枚を被せたところで、アンコはアンコ。これを被せた途端に19条の権利性が失われるのは不合理きわまるという理屈です。
不起立を、積極的に思想や良心を外部に表出する表現行為と構成すれば、たちまちに他の法的な価値、生徒やその父母や行政裁量などとの調整の問題が生じてきます。憲法の用語で言えば「公共の福祉」による制約の問題です。
「内心の自由」とそれを表現する「外的行為の自由」は、ご指摘のとおり、本来切断のしようがありません。11月11日のブログで紹介した、クリスチャンである原告のお一人が、こう言っています。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。」「「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。」
人の心と身体を切り離して、「『起立・斉唱・ピアノ伴奏』という『外部的行為』は、どのような思想・良心をもとうとも、その内容とは関わりなく、誰にもできるはず」というのが、都教委の「理屈」となっています。「起立して斉唱する」という、日の丸・君が代への敬意表明の身体的動作は、挨拶や会釈と同じ程度のものという感覚なのです。
醍醐さんのメッセージの中に、「『沈黙する自由』は人間としての尊厳を守る最後の砦」という一文があります。まことにそのとおりなのですが、今、教育公務員について問題にされているのは、「不起立の自由」の有無です。積極的に抗議する自由ではなく、意見を述べる自由ですらなく、権力の作為命令に人間としての尊厳をかけての抵抗が権利として認められるか否かのぎりぎりの瀬戸際。
これが教育の場での現実です。明日の主権者を育てる教育現場のうそ寒いこの実態をご理解いただき、まずは「公権力の干渉からの自由」を確立することに集中し、その成果の上に、さらなる「国家への干渉の自由」獲得を展望したいと思います。そのための息の長い運動に引き続いてのご支援をよろしくお願いします。
(2016年11月13日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.11.13より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=7697
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔eye3761:161114〕