あれが「言論の自由」だって、御冗談でしょう

仏風刺週刊誌編集部テロ事件で、テロそのものには、到底、同意出来ないものの、反面では、当該風刺画を巡って「言論の自由」を持ち出しての大規模デモには、一種の感覚のずれを感じざるを得ません。 当該の風刺画なるものが、そんなに云う程の意義があるものとはとても思えないからです。

フランスの国家として人として、当該風刺画が人の命を賭けて守るべき価値があるものとは思えない程度の低い、言わば、「ヘイト・スピーチ」並みのものと、私には、思えたからです。 本当に、あんな程度のものを人権規定のカタログが守るべき価値あるものと見做すべきなのでしょうか。 御冗談でしょう。

フランスの売春婦でも「営業の自由」を持ち出して、身勝手な権利主張をされる御国柄なので、今回の事件でも、当然、程度の低いヘイト・スピーチの自由を主張されるのは御勝手にされれば良いのですが、我々が彼等の身勝手な自己主張に同調するのは如何なものでしょうか。

この国では、イスラエルとユダヤ人へは、配慮が行き届き、ホロコーストに関する言論は厳しく統制されるものの、反イスラムの言論は、勝手気儘に放任され、イスラムの信仰と民衆への配慮は無きに等しい現状があるようです。 裏面には、嘗てイスラム圏に植民地を有していた過去があり、イスラムの信仰と民衆を見下げている面が実在するのでしょう。

云うまでも無く、権利の主張には、責任が伴い、また、権利の名の下に他人の権利侵害を生起せしめた場合には、その責めに任じるのは当然ですし、自由には、限界があるのも当然でしょう。 言論の自由の名の下に、闇雲に、また、挑戦的に他人の信仰を攻撃し、彼等の信仰する自由を侵害するのは、自由をはき違えたものと批判されるのも、また、当然です。

そして、言論の自由の名の下に他者を批判する場合に於いても、一定の礼儀と品格を以て行うべきでしょう。

そう思えば、件の風刺画は、度を越していた、と思えます。 これは、私のみの感想では無くて、例えば、報道機関でも、AP通信等では、シャルリー・エブド等の風刺画は、過度に挑戦的なもの、として掲載はされていません。 更に、事件後の同週刊誌発売に関わっては、例えば、ジャーナリストの非政府組織(NGO)「プレス・エンブレム・キャンペーン」(PEC)は13日までに、最新号発売について「火に油を注ぐ行為だ」と反対を表明した、との報道があります。

 

仏週刊紙発売に反対表明 ジャーナリスト団体 

 

件の風刺画がイスラムの信仰と民衆へ向けて如何なる影響を持つものかを考えなければならない、と警鐘を鳴らす報道もあるのは救いです。 それが、WSJであるのは、意外な感がする、と云えば失礼でしょうか。

 

神への冒瀆、イスラム社会では極刑に相当―仏襲撃事件で脚光