いいだ・もも『「日本」の原型――鬼界ケ嶋から外ヶ濱まで――』紹介

かつて1980年代末から90年代中ごろまで、私はいいださんからときおり新刊のご著書をおくって戴いた。私の著作に言及してくださったものが中心だったが、その中には“枕”になるような大著もあった。19世紀社会思想の面ではけっこう評価して戴いた。当時からずっと感謝している。

いま、いいだ・ももさんの訃報(3月31日逝去)に接し、かの時代を思い出している。ここで、追悼の意味をこめて、いいだ・もも『「日本」の原型――鬼界ケ嶋から外ヶ濱まで――』/平凡社/1994、の紹介文を転載したい。初出は『月刊フォーラム』第6巻・第2号、1995年である。

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弥生左翼的日本史論――縄文右翼的紹介 

 先日(1994年9月)、新潟県上越市の子安遺跡(平安前半9世紀中頃の層)から海獣葡萄鏡が出土したとの報らせを地元史家から受け、さっそく遺構など調査見学に行ってきた。葡萄唐草の上に禽獣を重ねた文様で知られるこの鏡は、定説によれば西域からシルクロード、遣唐船を介して日本にもたらされた。正倉院や香取神宮には現存し、遺跡出土では高松塚古墳の例がある。国内複製品もある。

 今回、興味がそそられるのは、出土した場所が高志(こし)だからである。一説によれば、高志は出雲に滅ぼされ、出雲は大和に滅ぼされた。大和と耶馬台の区別を棚上げしてみたところで、高志はまちがいなく倭=ヤマトではない。倭でない文化圏に倭の都で珍重される鏡が出土したというのはどうしたことか。倭に征服されたあと科野(しなの)を経て高志へ運ばれたとも考えられるが、早くから民間ルートを通じて道教が伝えられていた高志の一帯だから、こうした西域起源の鏡を高志の有力者が独自に入手したとは考えられまいか。現に近くの妙高山麓の関山神社には銅造新羅仏(7世紀)が安置されているのだから。

 海獣葡萄鏡出土にまつわる以上の推測は、実はいいだもも著『「日本」の原型』(平凡社、1994年)を読みつつ、ふと思いついたものである。

 一方で、いいだ著作の冒頭には以下の文章が記されている。「いつから日本? いつまで日本? どこから日本? どこまで日本?――この『日本』の端緒と終末の問題意識に立たなければ、今日の『日本史』はリアルな日本史たりえない」(1)。要するに、いいだ氏が本書を執筆した目的は、「いつから日本?」に返答することなのである。けれども、倭=ヤマトでなく出雲や高志にプレ日本社会を見いだそうとする自称縄文右翼の私には、「いつから日本?」に関心はないのである。

 だが反面、いいだ氏は、通常弥生右翼の人びとが好んで立脚する立場「『島国』での自生説はとらない」(2)と断言する。その一点においていいだ氏の議論は、先住民族文化擁護の立場にある私に、おおいなる興味をわかせたのである。「仏教受容を推進したヤマト『進歩主義』の主体がそれ自体が百済系氏族である蘇我氏であり」(3)、それ以前「すでにして倭連合国家の卑弥呼は巫女として道教主であり、三角縁神獣鏡とは道(タオ)世界の神仙と霊的交信を行なう権威財にほかならなかった」(4)とくれば、いいだ氏は私のいう弥生左翼で、縄文右翼の私と銅鐸を石器でたたいて共鳴しあう仲ということである。

 唐代の『隋書倭国伝』には、遣隋使の時代の「倭王の姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雉弥(おほきみ)と号す」とある。その後『旧唐書東夷伝倭国日本』(通称『倭国日本伝』)でも「其の王、姓は阿毎なり」とされ、「阿毎」を繰り返しているが、『宋史外国伝日本国』(通称『宋史日本伝』)では、「国王は王を以て姓と為し」という記述にかわった(5)。こうした変化は阿毎氏がもはや物部氏や蘇我氏と同列の人間的権力者でなく、天孫(神の子)となっていることを物語っている。そのあたりの突っ込んだ議論をいいだ氏は忘れていない(6)。そうしておいていいだ氏は、次の推定を行なう。「則天武后即位(周)、持統皇后即位(日本)の690年に、東アジア世界の一画期が来たとみてさしつかえない。要するに、日本列島においては律令国家=古代天皇制国家の成立である。『日本』誕生の上限は、おそらくこれ以上には遡れないであろう」(7)。

 だが問題なのは、この「律令制国家」の性格づけであろう。いいだ氏は言う、「律令制国家とは、古代日本国家の完成画期とみるべきであろう」(8)と。その際いいだ氏は、、「百済系・文武官人で固めた桓武体制」とも述べ、平安初期において日本の政体は依然として中国・朝鮮の政体と連動している点が強調される。いいだ氏の議論においては、こうして、固有の民族ヤマトとそのアキツカミ天皇という構え――つまり弥生右翼的構え――は古代においてついに導きだされないのである。「世界史のなかで日本史をみる」(9)いいだ氏は、古代史のみならず、元朝出現とモンゴル軍の日本襲来(10)、宋代の王安石と宋銭の日本大流入(11)で中世日本史を解説する。

 世界史のなかの日本史記述といういいだ氏の姿勢は鎌倉新仏教解説にも貫かれる。「法華経の行者として、此の土に華厳世界を現証しようとした不屈不倒の新仏教家」(12)日蓮は、「インド化国家の律令仏教(鎮護国家)以来の支配的伝統をうけつぎながら、いうならば自力聖道門の国家的昇華として立正安国・守護国家論に身命を賭する」(13)のだった。

 けれども、ただ一点、いいだ氏は日本史の自生的――私においてはプレ日本史的――展開に言及している。それは「トーテム動物シンボルとしてのキツネ」(14)である。現在までのところ、原始・古代日本にトーテミズムないしトーテム氏族社会が存在したとの論証をなした史家は一人もいないが、それが海の向こうから人の移動によってこちらへ持ち込まれたということは十分考えられる。この、トーテミズムでプレ日本社会を説明する試みは私がやってみたい。今回、著者はわずかに「キツネがいなければムラはなかった」とか、「キツネが憑かなければ天皇もいない」とか、「『日本』の原型は、上から下までキツネ憑きの国家である」(15)とし、けっきょくトーテミズムから離れアニミズムに移ってしまうのではあるが、とにかく日本古代史とトーテミズムとを関連づけようとした姿勢には学ぶところがある。

 因みに、冒頭に紹介した海獣葡萄鏡の「海獣」とは、海の外の獣の意である。この島の内外に展開した古代動物信仰から人類史解明の第一歩を踏み出したいものと、私はもっか、蛇の道ばかり歩いている。

1    いいだもも、『「日本」の原型』平凡社、1994年、8頁。

2  同上、42頁。

3  同上、45頁。

4  同上、60頁。

5  石塚正英、「天皇制再考」、同『ソキエタスの方へ』社会評論社、1999年、所収、参考。

6  いいだ、前掲書、64頁以下。

7  同上、77頁。

8  同上、78頁。

9  同上、165頁。

10  同上、155頁。

11  同上、161頁。

12 同上、278頁。

13  同上、279頁。

14・15 同上、297頁。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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