本日(8月22日)、私は内蒙古ハイラルへの旅の途上である。帰京は8月28日夕刻の予定。おそらく、ハイラルでお分かりの方は少なかろう。ノモンハンの近くの街である。戦前、このハイラルに第23師団の本部があった。そして、その近くの満州と蒙古との国境紛争がこじれて、日本とソ連との本格的な近代戦となった。これが、ノモンハン事件。あるいは、宣戦布告なき「ノモンハン戦争」である。
事件は、ちょうど80年前の1939年5月に小規模な現地の衝突から始まる。一旦終熄するが、6月再び大規模な空爆・空中戦・戦車戦となり、9月まで続いて日本軍は手痛い敗北を喫した。このわずかの期間に、日本軍は1万8千を超す戦死者を出している。双方の死者総数は4万余。大会戦だったといえよう。ソ連側の指揮官が高名なジューコフである。その戦跡を見学する旅なのだ。
話の始まりは、例によって、ある日吉田博徳さんからお電話をいただいたことである。「澤藤さん、ノモンハンに興味がありませんか?」と言われる。イエスと答えれば、「では、ぜひご一緒しましよう」となることを承知で、私は「イエス」と答えた。その結果として、本日私は北京に飛んでいる。盧溝橋の戦争博物館を見学して一泊。明日からの3泊4日が、ハイラル・ノモンハンの旅となる。その後北京に泊して、帰京は8月28日の予定。
「ノモンハン・イエス」と答えたには、幾つかの理由がある。
私の父は、招集されて関東軍の兵士となった。ソ満国境の兵営で2年近くを暮らしている。除隊時には叩き上げの曹長だった。駐屯地は愛琿(アイグン)の近くの小さな街とのことだったが、それより詳しいことは分からない。ノモンハンは愛琿の近くとは言い難いが、亡父の過ごしたあたりの風景や空気を感じることができるのではないか。
ノモンハンの戦闘にも興味がある。維新後の日本は、戦争では基本的に成功体験を重ねた。日清・日露そして日独の戦争。その成功体験が日中戦争では、思わぬ長期戦となり、ノモンハンではソ連を相手に明らかな失敗体験となった。にもかかわらず、天皇制日本はこの失敗体験を生かすことなく、対英米開戦に突き進んで、壊滅的な敗戦に至る。いったい、なぜ?
モンゴルの大草原をこの目で見たい。風に吹かれてもみたいという望みもある。吉田さんはいう。「モンゴルの草原の広さはとてつもないものですよ。どこまで行っても、いつまで走っても、まったく景色が変わらない」。日本の景色を箱庭という、その感覚の拠って来たるところを実感してみたい。
そして、最後が吉田さんのお誘いである。これは断れない。吉田さんは、ノモンハン事件の直後、ハイラルの23師団に就役して砲兵として2年を暮らしたという。元気なうちに、ハイラル・ノモンハンをもう一度、よく見ておきたいという。97才の吉田さんがそうおっしゃるのだ。「お供します」というほかはないではないか。
(2019年8月22日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.8.22より許可を得て転載
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