これは、くるりとベケットについてのエッセイなのですが、「くるりと」は副詞ではありません。「くるり」と「ベケット」について、なのです。「くるり」は、J-POPのアーティストで、ポップソングを作詞・作曲して、歌っています。「ベケット」は、サミュエル・ベケット。20世紀の風変わりな小説家・劇作家ですね。ノーベル賞の授賞式に欠席した、という逸話も有名です。
くるりとベケットは、似ているな、と思ったのです。どこが似ているのでしょうか。だいぶジャンルは、かけ離れています。日本人にとっては、くるりの方が馴染み深いでしょうか。それとも、20世紀文学を代表する一人、ベケットと並べては、おかしいくらい、くるりの方がちっぽけでしょうか。ともあれ、僕としては、両方を知っている人(とりわけ、両方とも好きです、という方)がどれくらい、いるだろう、と気にかからないでもありません。(街頭アンケートをとったら、5%くらいじゃないでしょうか。)
ですから、くるりとベケットの紹介から、始めたいと思います。
「くるり」は、バンド名ですが、結成当時から続いている、メインのメンバーは二人です。そのうちの一人が、ほとんどの曲の作詞・作曲を手がけています。岸田繁さんですね。
YouTubeのリンクを貼ってみます。ついでに、歌詞も。代表曲の一つ、「ばらの花」ですね。
動画:http://youtu.be/lgVdcRvcUOs
歌詞:http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=66019
(以下、歌詞の引用は、JASRACの許可が要りそうなので、割愛して、内容をほのめかすだけにします。)
この歌のうちで、歌い手は「ジンジャーエール」を飲んでいます。「僕ら」は「安心」だから、「旅に出よう」と言うのが、サビの部分で、全曲を通して、繰り返されます。途中、「君」とか「最終列車」が出てきますが、よくわからないまま、「ジンジャーエール」はこんな味だったっけかな、と気怠そうに連呼して、歌は終わります。
だから、なんなのか、と言われると、よくわかりません。メッセージもなさそうだし、とりあえず、ジンジャーエールを、部屋で一人で飲んでいるような光景が浮かびます。安い、けど、ちょっと美味しい、庶民風に洒落てみました。そんな炭酸飲料です。そして、「安心なら旅に出よう」と持ちかける。わかったような、やっぱりわからない理由。
「くるり」の歌は、どれもこんな調子で歌われます。つまり、全編を通して物語になっているわけでもなく(BUMP OF CHICKEN(バンド)は、物語風ですよね)、恋愛の機微や人生の問題に一生懸命なわけでもなく(Mr. CHILDRENは、そういうことに熱心な作風ですね)。かといって、単純明快に、「元気を出そう!」とか「僕らはみんな一つなんだ」とか……そういったありふれたメッセージを打ち出すわけでもないのです。
それでいて、彼らは、まったくの「ナンセンス」を目指してはいません。80~90年代のフリッパーズギターのヒット集や小沢健二を聞いていると、あからさまにナンセンスな歌詞が続き、それは2000年代のスピッツにも受け継がれているようなところがある、一つの潮流です。(かつてのバブリーな気前の良い雰囲気はもうないとしても。)
そんなわけで、くるりのオリジナリティーは、とても捉えにくいものです。なんと言ったらいいのか、彼らの歌い方には、「思いつきをそのまま呟いた」ような歌詞と同じく、どこか自然と「話しかける」調子があります。その奇妙な日常性が面白いのです。他方で、彼らにないもの、それは「物語」「恋愛」「人生」といった大きなテーマ、読者への「メッセージ」、仕掛けとしての「ナンセンス」等々。彼らには、既存の「文学性」がないのです。
ベケットもそうでした。「ゴドーを待ちながら」という戯曲は、とりわけ著名ですね。「ゴドー」を待つ人々が、とりとめのないやりとりを続ける。それで、終わり。「ゴドー」は来ないまま、終幕です。初演の時、パリの小劇場だったと思いますが、観客は、ちらほらと帰ってゆき(2時間くらい上演にかかったはずです)、終わりまで観た人は、ほとんどいなかったそうです。
しかし、この「わけのわからなさ」が、かえって、とても面白いのではないか、と評価が高まります。この戯曲、そもそもタイトルの「ゴドー」が、人の名前なのかも、わかりません。ひょっとして、団体名なのか、ものの名前なのか。劇中では、触れられていないのです。ある評論家は、「ゴドー(Godot)とは、「ゴッド(God:神)」のことなのか」と、ベケットに質問したそうです。ベケットの答えは、「それなら、そう書いた」。
ベケットの戯曲は、全集も出ていますし、「ベスト・オブ・ベケット」という3巻本の選集でも、読めます。僕はこちらで読みました。奇妙な男の一人語り、バナナの皮ですべる、体をもたずにしゃべる口、肩まで地面に埋まった女性が傘をさす、不条理とも奇妙とも言える演劇が集まっています。
そこには、「文学的」な大テーマ、メッセージ、そして露骨なナンセンスさえ、見られません。戯曲の登場人物たちは、ちょうど、彼ら自身の日常生活を送るように、ふだんの調子で、話をするのです。ただし、だいぶ異様な状況下で。
もっとも、ベケットの解釈は、さらに大きな多様性をもちうるでしょう。けれども、ここでは、ベケットの革新性を「厳しい現実がひっくり返った状況としての、奇妙な日常性」とまとめてみたいと思います。
くるりとベケットは、それぞれ90~2000年代の日本の閉塞、二つの大戦と異国での生活という、厳しい現実を目の当たりにして、芸術家人生を築きました。ベケットは、戯曲ならではの、また、彼ならではの芸術性で、現実をひっくり返すように、おかしな世界を描きます。くるりは、むしろ、ごちゃごちゃした現実の隙間へ、謎めいたフレーズで、ふとした日常性を紛れ込ませます。どちらの場合も、それは、奇妙な日常性です。
くるりとベケットは、どちらも、厳しい現実をロマン的に美化しなかった。「醜悪化」もしなかった。そこに救いを求めもしなかった。また、現実を「超えて」いかなかった。(超現実。シュルレアリスム。)そして、まったくのナンセンスへと逃避もしなかった。そうした意味で、彼らは既存の「文学性」を、それぞれの分野で、つまり、J-POPと演劇界(ないし「文学界」)で、乗り越えたのだと思います。
くるりもベケットも、どこか地に足がついているようなところがあります。「どうして?あんなにわけがわからないのに?」ーーそう、それは、現実に密着しているという意味でのリアリティではありません。けれども、芸術の高みから世界を見下ろさないのです。一人の人間が、そこを歩いている、と言いたくなるのです。
僕らは、厳しすぎる現実のさなかで、「くるりと」きびすを返せるのではないでしょうか。気の抜けた「ジンジャーエール」のような、曖昧で、奇妙な日常性の中で、なにをするでもなく「ゴドー」を待ちながら、当たり前みたいな顔をして生活することが、できるのかもしれません。それは、夜空に輝く星のような希望ではなくて、ささやかな石ころのような希望なのでは、ないでしょうか。
おわり
追記:くるりのCDでは、ベスト盤(2つあります。)が、入門にはおすすめです。また、ふつうのアルバムからは、「ワルツを踊れ」を勧めたい気がします。クラシック風の音作りと、バラードからロックまで幅広い曲調、わかりにくい歌詞から単調な歌詞まで。くるりの個性が、とりわけ面白い形で出ていると思います。
初出:ブログ「珈琲ブレイク」より転載。http://idea-writer.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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