毎度、言い訳ばかりの「こいのち」です。10月は早めに送るぞ、と決意していたのですが、結局もう10月も終わるころになってしまいました。「届かないけど・・・」とご心配をおかけしているかものしれません・・・。10月中に総選挙が行われるというのは意外でした。内閣が新しくなった途端にやっつけてしまおう、ということなのか、野党共闘の準備ができないうちに、ということなのか。あれよあれよ、日程だけが足早に決まっていて、公選ハガキを書く暇もないし、私のところに届かなくてもいいのに、8枚も同じ候補者からハガキが届くという状況。もったいない! その分、迷っている人、選挙しないと決め込んでいる人に回してほしい、と心底思いました。やっぱり、選挙というのは「枚数をこなす」ということなんだろうな、と。
前にも書きましたが、中島岳志さんがいうように、10人のうち、3人が与党、2人が野党、あとの5人は浮動票という構図があるのだったら、その5人に働きかけなくてはならない。与党は、確定票以外は投票にいかずに、寝ていてくれていいと思っているのだから、そこをどう動かすか、ということですよね。このところ、若い人たちが「選挙のことちゃんと考えよう」と行動している記事や番組などもみかけます。18歳以上が頑張ってくれなくてはね。「国政選挙の投票率は、平成29年10月に行われた第48回衆議院議員総選挙では、53.68%、令和元年7月に行われた第25回参議院議員通常選挙では48.80%となっています」と総務省が伝えています。
「日本の国政選挙の投票率は、およそ50パーセント」と、スペインのジャーナリストの友人に伝えたら、ビックリでした。「選挙の参加率が50%だとしたら、投票できる人の国民の半分しか参加していないということで、そのシステムは有効ではないだろう。たしかに、さぼって行かないというのはあるけれど、政治家に飽き飽きし、公約は果たされず、汚職、自分たちの身内や知り合いを利するしかないことに嫌気がさしているということなのだろう」。
どこも同じ。スペインだって60%くらいでしょうか。マドリッドの州議会選挙となると、76%の投票率と大幅にアップしているのにビックリ! 日本は自治体の選挙なんて、本当に低いですからね。身近な問題に関心を持つというのが手始めのような気がします。
さて、コロナがなんだか落ち着いてしまった、という雰囲気もあって、それもちょっと怖いです。まるで解禁状態ですから。新宿のひと込み、一気にこれまでのツケを解消しようと、飲んでる、飲んでる・・・。スペインの友人も言っています。「公園で25000人!が明け方まで、マスクもつけずに酔っぱらっていて、ゴミが散乱。禁止事項はとっぱらわれているけれど、医療の世話になる人はもちろんまだまだいるたくさんわけだし、ワクチンだってだんだん言われていたほどの効果はなくなっている」と。まだ手を引くのは早いぞ、ですね。用心していないことが山ほどありそうです。
いつも言いたくなるのだけれど、解禁になったからそれ!と走るのではなく、非常事態の時だって、ここまでは大丈夫、ということはあったと思うし、ともかく自分で考えて流されないようにしたいものです。
10月10日は雑居まつりでした。実行委員会では喧々諤々の討論になり、46回目の雑居まつりは二時間のみ。参加団体も25くらい。ほとんどの団体は活動のアピールのみでした。「雑居は不滅です」というメッセージを送り続けることがコロナ禍にあっても一番大事なことでした。私は、「神戸をわすれない・せたがや」で、「たまりば」の仲間たち、「サポートステーション」の斎藤さんと一緒に参加。毎年、前の日から当日の朝はやく、片付けと、目の回る忙しさですが、こんなに余裕のあるお祭りもたまにはいいね、と事務局の人たちは感慨深げでした。いつもはなかなかできない広場ごとの交流ができました。保坂区長も挨拶。なにが足りないって、やっぱり人が直に顔を合わせること。これはとても大事なことです、と。当たり前のようですが、思わずうなずいてしまいました。
来週は11月。カレンダーもあと二枚。わが家はやっと扇風機をしまって、一台しかないストーブも出したところです。時間が経つのが早すぎます。先日の日曜日の気持ちのいい日、日曜科学クラブの子どもたち、大人たち一緒に60人も!が信濃境でキノコを採り、大鍋にキノコ汁を楽しみました。秋の企画はまだまだ。今度の日曜日は、ボランティア協会をささえる会での恒例の干し柿づくりイベントがあります。稲穂で縄を綯って山陰の西条柿を吊るして一か月。どうぞ参加してください。
こいのちの学習会もしばしなかったし、ネタがないなあ、と悩んでいましたが、雑居まつりで出会ったに「世田谷の教育を考える会」の岸塚さんが、とても感動した本のことを「書きましょうか」と救い船を出してくださいました。知られざる、世田谷の歴史でもあります。学校でも取り上げたらいいなあ、と思いました。 (星野弥生)
図書紹介 『知られざる拓北農兵隊の記録』
~北海道江別市に「世田谷」の地名が、なぜ?~
世田谷の教育を考える会 岸塚雅雄
調布で熱心に市民活動をされている知人から仲間が本を出したとお聞きし、内容を尋ねたところ、私の郷里の北海道十勝が舞台となっていることを知りました。22歳まで十勝の帯広郊外に住んでいた私は郷土史を読むような軽い気持ちで本を購入しました。しかし、読み始めると、戦中や終戦直後の事は多少の知識はあると思っていた私でしたが新たな事実に驚愕の連続でした。
その著書は『知られざる拓北農兵隊の記録』(高文研)と題され、著者は鵜澤希伊子さんです。鵜澤さんは1930年に世田谷区で生まれ現在は調布市にお住まいです。著書は終戦間際に「拓北農兵隊」として北海道に送り込まれた数多くの家族の筆舌に尽くしがたい苦労の記録と当時の政治的背景、過酷な中で行きついた平和への思いが記されています。
1. 拓北農兵隊とは
1945年3月10日の東京大空襲は10万人を超える死者と100万人を超える罹災者を出したことは知られています。膨大な数の戦災者の扱いに困っていた当時の政府は、ある衆議院議員の発案を基に「集団疎開し、食糧増産に挺身せんとする者を急募す」と北海道への集団疎開を計画しました。更に「住居と農地を提供し、主食品を配給するほか、交通費と家財の輸送費は無料」とまで公示していたのです。家を失い、仕事も失い、疎開先もない多くの人が応募したのは無理がありません。1945年7月6日、世田谷区などから200世帯950人ほどが第一陣として出発しています。この後、11陣まで続けられたのが「拓北農兵隊」です。終戦直後も含めて、東京を中心に横浜、名古屋、大阪の人も応募し、最終的に約3400世帯17000人が北海道に渡りました。
著者の鵜澤さんは当時14歳で両親と祖母、3人の妹弟の7人家族で、敗戦後の9月4日に上野駅を発しました。鵜澤さん一家が入植したところは河西郡川西村中上清川で、その後、川西村は帯広市に編入されています。私の郷里から近く、今はジャガイモ、小麦、甜菜、トウモロコシなどの栽培が広がる畑作地帯です。
著書には敗戦直後の上野駅でボロくずのようにされた戦争被害者の様子が生々しく描かれています。入植地では、女学生であった鵜澤さんの勉強への思い、貧乏ときつい労働に身をすり減らした母の死、一家を支えるために18歳で小学校の教員に、戦争によってもたらされた貧乏とバラバラにされた家族のことなど、鵜澤さんの葛藤など様々な思いが書かれています。その後、1963年3月に帰京し川崎市等の教員を得て東京都の教員となり、主に障害児学級を担当されていました。
2. 棄民政策は許されない
生活の糧を失い必死の思いで北海道に渡った人々に対し、政府が公示した「住居と農地を提供し、主食品を配給するほか、交通費と家財の輸送費は無料」という内容はほとんどが虚偽に近いものでした。住居は掘っ立て小屋か家畜の小屋、畑は泥炭地、主食品などの配給は無し。北海道の冬はマイナス20度から30度まで下がりますので、掘っ立て小屋では凍死もあり得ます。土地は畑作に適している所はすでに明治以降の入植により残っていません。拓北農兵隊には農業に適さない泥炭地が与えられたのです。拓北農兵隊の人々は到着後より命を懸けた日々の闘いが続きました。
著書の中に「片道だけの交通手段だったことからふと、戦時の特攻隊を想起した」とあります。まさに拓北農兵隊は政府の口減らし政策であり、棄民政策であったことが分かります。杉並区より拓北農兵隊として札幌の手稲地区に入植し、現在、郷土史研究家として活動されている方の『会報64号 郷土史 ていね』には次のように書かれています。「とりわけ入植者たちを打ちのめしたのは、終戦により計画推進した内務省自体が消滅することにより、拓北農兵隊も存在しなくなるという状態に陥ったことと、その後の関係機関の不誠実な対応に直面させられたことであった。その意味で、この拓北農兵隊は、かつての屯田兵とかその後の戦後緊急開拓事業等と比べても、比較にならない苦難を強いられ、その意味では棄民政策であったと思われる」と断言しています。
政府の棄民政策と思われるものは満蒙開拓団の問題や水俣病の問題、福島原発事故の問題などがあり、うやむやにすることは許されないことで、政府は被害者の最後の一人まで手を差し伸べる姿勢を取らなければなりません。
3. 北海道の江別市に「世田谷」の地名が、なぜ。
朝日新聞は2020年の夏に「戦後75年 まだ間に合う証言を未来へ」と題したシリーズが特集されました。8月23日の新聞には「北海道の『もう一つの世田谷』75年前の開村のわけ」が掲載されています。簡単に紹介すると、1945年の敗戦直後、世田谷区から33世帯が拓北農兵隊として北海道の江別市に入植しました。人々は道庁に掛け合って近場の原始林を伐採する許可をもらい、力を合わせて丸太を切り出し、掘っ立て小屋を建て、集落を「世田谷」と命名しました。入植地は泥炭地のため客土を続けて土地の改良を行い、酪農もできるようになりました。電灯がついた喜びや集会所を建て「世田谷倶楽部」と名付けたことなどたくましく生きる姿を紹介しています。
4. 朝ドラ「なつぞら」の天陽君
余談になりますが、拓北農兵隊はNHKの朝ドラにも出てきます。2019年4月から放映された「なつぞら」です。ストーリーは東京で戦災孤児となった少女「なつ(広瀬すずさん)」が十勝の農家に引き取られて成長する姿を描いたドラマです。なつが高校生の時に出会った、十勝平野の荒れ地で農業に取り組みながら絵を描く「天陽(吉沢亮さん)」君の一家がそうです。誰もが耕作は不可能と思われる土地と粗末な住宅は拓北農兵隊そのものです。モデルは神田日勝氏と言われています。神田日勝氏は板橋区で生まれ、8歳の時に東京大空襲にあい、家族と共に拓北農兵隊として十勝の鹿追町に入植しました。中学校卒業後、家の農業を継ぎながら絵を描きましたが32歳という若さで亡くなっています。鹿追町には神田日勝記念美術館があります。
5. 残さなければならない証言
この本は北海道の各地で筆舌に尽くしがたい苦労をした人たちの心からの叫びであり、拓北農兵隊を生み出した戦争に対し二度と戦争はしてはならないと訴えるものです。同時に、国家の変遷があっても同時代に生きる人々に対する国家の責任とは何か、どうあるべきかを考える機会になりました。それは今日にも通じるものです。「誰一人取り残さない」という言葉が政府から聞こえてきますが、むなしく響かないように注視したいと思います。
青木美希さんの講演会「いないことにしないで! 福島のこどもたちは今」
2019年、「こいのち」と「福島のこどもたちとともに・世田谷の会」が共催で、朝日新聞記者の青木美希さんの講演会「地図から消された街」を行いました。コロナ禍前だったので、60人くらいの方に来ていただきました。青木さんは以前世田谷地域を担当していたこともあり、前川喜平さんの講演の時には、終わってからの打ち上げの場で、地べたに座りながら記事にし、翌朝すぐに配信する、という超スピード。その後も、福島っ子リフレッシュの冬の取り組みに密着取材で記事にしてくださいました。講演で話す機会があれば、「保養のプログラムをやっているグループを応援してください!」と声かけをしてくれます。平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞など数々の賞を受賞、「地図から消された街」はすでに5刷り。2020年に編集局から配置転換で外れましたが、取材は続け、今年4月に出たのが、「いないことにされる私たち」でした。ツイッターのフォロワーは朝日で最多の5万一千人!そんな忙しい美希さんにまたまたおいでを願うことになりました。題して「いないことにしないで!」。放射線、甲状腺・・10年間経って、オリンピックですべて消されて「なかったことにされ」「いないことにされていく」福島の人たち、避難者の人たち・・・。いや、福島のことだけではありません。日本中が「あるのにないことにされていく」ことばかりではないでしょうか。モリカケ問題、さくらを観る会・・・。公文書改ざん問題で近畿財務局職員の赤木俊夫さんが自死された事件をめぐり、ようやく「赤木ファイル」が開示されても、あきらかな改ざんなのにいつの間にかうやむやになってしまっています。妻の赤木雅子さんは。岸田首相に自筆の手紙で訴えl返事を求めていますが、それも選挙の中でどこかに埋もらされてしまっています。あまりに、「なかったこと」が多すぎます。今度の選挙もすべてがなかった こと、忘れられたことになっていくのでしょうか。
前回、保坂さんは青木さんとの対談の際に「3.11を繰り返さないということは、被災者たちに向き合って重んじるということだと思いました」「沈黙することが現状を追認することであり、格差が格差を生みます。そこを転換するには発言する」と訴えました。「また第二、第三の事故が起こる国になっていると感じます。この国は3.11をまたやろうとしている。それは自覚しましょう」と。
「福島の子どもたちともに世田谷の会」では、この二年間リフレッシュを実施することが出来ていません。去年「甲状腺がんの子どもたちの問題」ついて白石草さんにお話を伺ったことがきっかけで、甲状腺の子どもたち支援を行う「あじさいの会」とのつながりができました。今では福岡の黒木町の無農薬の農産物を福島に届けてもらうことで少しでも喜んでいただけています。今回は小川さんからみかんを送っていただきました。青木さん、あじさいの会の千葉さん、そして保坂さん、今回も示唆に富む、実り多い会になることを願っています。
公園はだれのもの? ~問題提起~
世田谷の私たちは、公園緑地に恵まれている方でしょう。しかしその利用形態は、時代状況の変化と共に変わり続けてきたのだと思います。昨今は、長寿化による高齢公園利用者の増加が、公園のニーズを大きく変えようとしているのかもしれません。まるで日本社会の問題の縮図の様です。
折しもネット上に「世田谷区公園のよりよい使い方―子供視点」「team世田谷区公園の看板に子ども目線を!」などのサイトが見られ、子育て世代の問題意識や、それ以外にもあちこちからの不満・疑問の声が同時期に湧き上がっており、前号に続き、ここに投げかけたいと思います。
人口増により、住宅・商業施設など土地の高度利用が限界近くまで進み、子ども達が自由に遊べる空き地は、ほぼゼロとなりました。それと同時並行で、公共施設の整備も飛躍的に進みました。公園はその代表格でしょう。公園は、飽くまでも人工的に区切られ、公共物として管理された空間であり、65年前に施行された「都市公園法」に基づいて管理されてきた訳ですが、高度成長入口の頃と同じで良い筈は無く、とうの昔に見直すべき時が来ているでしょう。
子ども達にとっての、かつての空き地や小川や裏山の代わりの役割は、残念ながら世田谷では、やはり「公園」に頼るしかありません。41年前には、住民の働きかけによって「プレーパーク」が、全国に先駆けて産み出されましたが、それのみで、こども環境を完結させられるはずもありません。
区長は、10/10雑居まつりのあいさつの中で「少子化だからこそこども環境の扱いを手厚くする選択をします。」と熱く語ってくれました。裏山のような自然環境の補完機能と、ご老人たちの平安な憩いの環境などの、幅広いニーズの間で、限られた資源としての公園の在り方が問われています。
そういえば、コスタリカの子どもが、川に柵が無くてボールが落ちたのは、自分が健康に暮らしてゆく権利を保障した「憲法」に反すると訴えて、自治体が柵を作る事になった話がありました。
日本の我々も、子どもを始め、あらゆる人にとっての「生存権」の問題として、環境についての声に耳傾け、尊重し合おうとする事は、民主主義を育むプログラム、そのものなのかもしれません。
選挙戦の結果にもよりますが、来春までに、このテーマで何かやりたいものです! (事務局トール)
いろいろ告知板 は日程が過ぎてしまったので、省略します。
世田谷こどもいのちのネットワークの仲間になってください。つうしん、お知らせが届き、講演会などの参加費が無料になります 年会費3000円 郵便振替口座00100-9-396998
*会費納入者 2021年9月 割田隆之 荒川真佐子 小川圭一 島永嘉子(寄付も) 松島ミス子(寄付)
(こいのち事務局)連絡先:星野弥生 Tel&Fax 03-3427-8447 070-5554-8433 email:marzoh@gmail.com
(毎月一回の通信発送作業に協力してくださる方を募集しています。おしゃべりながらの楽しいひと時です。場所は、世田谷ボランティアセンター(三軒茶屋))日時は未定。1時間でも二時間でも)