この国は、もう一度、「今は無き掩体壕」を子供に見せるのか

今年は、米国大統領選挙に当選されたトランプ氏が住むトランプ・タワーが、何かにつれて被写体として眼に映る機会があり、その度に、古の米国映画の或るシーンを反射的に回想することが多かった年でした。
と云えば、誰(中年以降限定かも)でも、ヘップバーンの映画「ティファニーで昼食を」思い出されるでしょう。 しかしながら、この映画、現在、撮影されるとしたならば、あの金ンキラ金のトランプ・タワーが写る街頭で撮影されるのでしょうか。
如何にも成金趣味丸出しの金色の文字を背景にしては、ヘンリー・マンシーニの曲も似つかわしくはないことでしょうし。
因みに、この映画の最終章は、頂けません。 何が有ろうとも、水に濡れるのが大嫌いな猫を雨中に車内から投げ捨てるのは虐待ですし、猫風邪にでもなればどうするのですか。 病気が怖いので、我が家では、猫のシャンプーは、専用の薬剤を使いドライで行う程です。 今、仮に、この映画が撮影進行中であれば、動物保護団体から批判されることでしょう。
Breakfast at Tiffany’s Opening Scene ? HQ You-tube
https://www.youtube.com/watch?v=1JfS90u-1g8

Breakfast at Tiffany’s, the end You-tube
https://www.youtube.com/watch?v=YnOfomPgETs
長い前振りは、さて置いて、アベ・トランプの「会談」(?)に激怒されたオバマ大統領に促されて真珠湾に赴き、大統領引退の花道の添え物宜しく、賛助に努められたのは属国首相としては当然のお勤めでしょうが、その際の長々しい物言いには呆れます。
そして、私が、一瞬驚き、我が耳を疑ったのが以下の一節でした。
「戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。」
就中、「ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。」との一節。
俗な言葉で言えば、「あんたにだけは言われたくない」と云うことです。
祖国を米国の傀儡国家として差し出している国の首相が、何を偉そうに云うのでしょう。
この国の姿を正確に捉えているロシアは、この国が米国の属国であるからこそ、北方領土返還の交渉の道筋さえも示さないのが真相でしょう。 先走って経済援助の実のみを「食い逃げ」されるのが運命である己の姿が観えないのでしょうか。
ロシア大統領付属戦略調査研究所のイーゴリ・プシェニチニコフ所長顧問の下の言明を読めば、首肯せざるを得ないのが事実です。
即ち、「日本領内にある94の軍事基地は、アジア太平洋地域における米国の最も大きな軍事プレゼンスである。その際、日米安保条約は、日本にとって全く明白な隷属的性格を持っている。米国は、在日米軍基地を完全に自分達の判断で使用する権利を持ち、そこに必要とみなすあらゆるもの。米国防総省にとって必要な兵器や武器、部隊を置くことができる。このように日米安保条約では、米国は宗主国であり、日本はその家来、属国に過ぎない。」と。
真珠湾:倒されし敵はいかにして同盟国となったか? sputniknews.com
https://jp.sputniknews.com/opinion/201612283187459/
属国の「統領」が己の判断で「外交」等は出来得ないのは当然で、日銀に国債の金利上昇を抑え、政権維持のためのバラマキ資金供給役を押し付けて得た資金を世界にバラマキしても、精々、国費で外遊出来るのみ。
阿保な国民に目潰しで、GPIFその他に株買いで官製相場を演出させて景気上昇を装い、各種指標を誤魔化せば、御追従笑いで揉み手をする報道人と似非学者が辻褄を合せてくれる、と胡坐をかいているのでしょう。
しかし、世界は、英国のEU離脱と米国のトランプ氏勝利で、新しい局面を迎えます。 米国一筋で縋る属国にも、肝心の米国から三下り半が齎されるかも知れず、また、トランプの米国が、中露との関係が如何になるかに依っては、この国が戦争への道を直走る結末を迎えることになるのかも知れません。
現在、トランプ氏と中国との関係は、危険な水域に近づいているとも思えますので、来年には、それがこの国を交えて明白且つ現存する危険に転移する恐れも感じます。
本当に、この国は、アベ化して戦争するのかも。 そして、もう一度、戦争の跡で何も無い彼方を観ることになるのかも知れません。
私事ですが、私自身が、戦後の風景の中にあった旧日本軍の掩体壕(軍用機を空襲から防備する施設)の天蓋に上り、東に聳える生駒山を眺めたことがあり、何と、その折の姿が写真として残っている事実をネットで知りました。
当時の経緯は詳しくは記憶していないものの、偶々、通りかかった道筋で他の子供達と一緒に掩体壕に上り、居合わせた大人に撮られたものでした。 その当時に、写真を送付しましょうと申し出て頂いたのですが、記録が残れば将来に見られるでしょう、と応答した覚えがあります。 掩体壕を撤去するのでその記録を残す作業であったのでしょうか。 私の御蔭で良い写真が撮れた、と喜んでおられたことを今でも覚えています。 何しろ、家屋で言えば、二階から三階もある建築物でしたので、その天蓋に上るには工夫が要りました。
下に上げましたブログ中の「今は無き掩体壕(昭和33年)」と題された一葉の写真です。
大日本者神國也(おほやまとはかみのくになり。主に西日本方面を中心に大東亞戦期の軍跡(国防、軍事関連施設、所謂「戦争遺跡」)を紹介)
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1258.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion6434:161229〕