こんなに様々な老いがある ―高齢時代への新たな視点― 書評 天野正子著『〈老いがい〉の時代―日本映画に読む』(岩波新書)

 高齢社会は「老い」が普遍化した社会である。その老いをどう受け入れるか。本書は、「その未知なるものを想像する〈老いがい〉を考える手がかりとして、第二次世界大戦後の日本映画を素材に、老いや老年、介護が伝えるメッセージを読み解く試みをしたい。老いを生きる豊かな知恵や創造を発見する試みでもある」(「この本の扉に」、一部略)。

《映画を素材にした高齢時代論》
 著者天野正子は1938年生まれの社会学者、お茶の水女子大名誉教授。著書に『「生活者」とはだれか』(中公新書)、『老いの近代』(岩波書店)などがある。
著者は、老いの映画解読のために四つの枠組みを設定する。すなわち
①「動く座標軸
②老いの万華鏡
③「生─老─死をつなぐ」
④「昭和を老いる」
では木下恵介、小津安二郎、黒澤明らの巨匠が経済成長期に「老い」を理念的に描いたと論じ、それが成熟・停滞に入った現在の日本で世代の異なる監督たちによってどう描かれるかを論じている。老いは具体的、個別的、現実的なテーマになった。動く座標軸の意味である。本書では全部で65本(しかもシリーズものを一本とカウント)の作品が引証されているが、本稿ではその一部しか挙げられない。ここでの個別作品論では『デンデラ』(天願大介監督・2011年)に注目したい。天願は、『楢山節考』(1983、木下恵介作のリメイク)の今村昌平の子息で、内容は前作の今日的解釈による新版である。そこでは70歳の老女たちが村の掟を拒否して新たな共同体を作る。それが熊の攻撃でどう変貌するかが描かれる。熊に日本社会の現状を重ねる著者の視点が鋭い。
は1954年の『水戸黄門漫遊記』に始まる黄門シリーズ、『男はつらいよ』、『釣りバカ日誌』などのシリーズにみる老人の生き方や知恵が考察され、後半では笠智衆、北林谷栄、高峰秀子論となる。他に『鍵』(市川崑・1959)、『百合祭』(浜野佐知・2001)の老人の性愛論が新鮮である。老いの諸相の考察である。

《個別的な老いを「昭和」という文脈におく》
 ③は老人と異なる世代との関係を描いた作品論で老いを分析する。『ふるさと』(神山征二郎・1983)、『水の旅人 侍KIDS』(大林宣彦・1993)、『夏の庭TheFriends』(相米慎二・1994)などが、天野の「老い」の分類箱に入ると、問題の多様性が見えてくる。『痴呆性老人の世界』(羽田澄子・1986)、安楽死を描いた『人間の約束』(吉田喜重・1986)、『午後の遺言状』(新藤兼人・1995)への視線もよい。新藤作品への「この映画はその意味で、老年期を心理的にも社会的にも安定期としてではなく、むしろ激しいアイデンティティの再編期としてとらえ直す」という言葉は、著者の年齢を考え、また評者(半澤)自身の心の動きに照らしても、適切な指摘だと感じさせる。
は老いや死という個別性に解消されがちな人生を、社会性の文脈に引き戻す試みである。著者はこう書いている。「老いとは人生の後半期をどう生きるか、アイデンティティの再編・統合は求められる、ヒトとしての発達課題の最終の季節である。しかし、『昭和』を生きて老いた人びとには、それだけでなく、自分の身体と精神に刻まれた『昭和』という時代とその体験を問い直し、『清算』をはからねばならないという、困難な別の歴史的課題がある」。この言語は、同時代を生きてきた読者には重く迫る。著者が摘出した社会的なテーマと僅かな作品名しか挙げられないが、それは次のようなものである。中国残留孤児、原爆投下(『父と暮らせば』を含む黒木和雄の戦争レクイエム三部作、日系三世スティーブン・オカザキの『ヒロシマナガサキ』(2007)、戦争花嫁(『ユキエ』松井久子・1998)、未帰還兵(『蟻の兵隊』池谷薫・2006)、従軍慰安婦(『ナヌムの家』ビョン・ヨンジュ1996)。
本書の結語部分で著者は日本映画のメッセージを三つほどにまとめているが、内容は本書に譲りたい。あらためての問題提起が行われている。

《「求めるべき」対象と「受け入れるべき」対象》
 以下は私の読後感である。
自分の老いと死を考えることを人は避けようとする。私も例外ではない。しかし老いと死は微笑とともに近づいてくる。それでも、人は自分の問題としてでなく、社会保障政策の対象として考えたがる。私も例外ではない。そういう人間にとって本書は一つの衝撃であった。映画を素材にして日本人の老いと死を縦横に考察していく。それが進むにつれて問題は、解明されると同時に、新しい問題を提起する。考えてみれば、著者が冒頭にいう通りテーマは「未知」に溢れており、これに答えるのは未経験と不安がつきまとう道程である。本書を問題提起の書と受け止めればよいのである。そう考えれば、その先駆性と著者の洞察力、目配りの良さを読者はあらためて感ずることになるだろう。

しかし私は自分の気持ちを正直に書いておきたい。日本映画『青い山脈』を語るときに人は、それを「求めるべき」青春として語った。しかし日本映画によって「老い」が語られるとき、人はそれを「受け入れるべき」対象、死への最終過程として考えるのである。本書が、鋭く優しくきめ細かくデリカシーに満ちたことばで「老い」を語るほど、私は受容と反発の気分が一体となって立ち上るのを感じた。もちろん、それは著者の責任ではない。それは80歳に近づいた同時代の人間すべてが、おのれの生涯の決算書として答えを出さねばならぬ課題である。「アイデンティティの再編と統合」とはなかなか辛いものである。

■天野正子著『〈老いがい〉の時代―日本映画に読む』、岩波新書1475、岩波書店、2014年、780円+税

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