(2022年7月18日)
政府は、今秋安倍晋三の「国葬」を行うという。いかなる思惑あってのことであろうか。私は、岸田の胸中をこう忖度している。
今、安倍は「非業の死」を遂げた悲劇の政治家だ。国民の同情が集まっている。これまで政治に無関心だった層に、ドラマみたいな刺激を与えただけではない。アベノマスク問題で無駄金を使い、「中抜き業者ばかりを儲けさせた、無為・無能・無策のアベ」と批判していた層からも、「アベさんが何をやったかの議論はひとまず措いて」、「あんな殺され方は、たいへんにお気の毒」という同情を集めている。これはチャンスだ。このチャンスを逃しちゃならない。鉄は熱いうちに打て、国葬は興奮冷めやらぬうちに決めろ。
政治利用と指摘されようと、手法が強引と批判されようと、安倍に対する国民の同情を煽り、同情の心情に方向付けをしなければならない。まずは、安倍受難の悲劇を強調することで、生前の所業に対する批判を封じることだ。安倍政治は自民党総裁として行われたもの。基本的には、今も継承されているし今後も続くことになる。ウソつきだのごまかしだの、あるいは公文書の改竄隠蔽、政治の私物化などの数々の疑惑で轟々たる安倍批判が続くことは、自民党政治の継続が危うくするということだ。これを封じなくてはならない。既に、安倍に対する儀礼的な弔意が連鎖的に重なることで、安倍批判は言い出しにくい空気が醸し出されている。これは好都合だ。
安倍批判を封じるだけでは足りない。安倍を「偉大な政治家」と天まで持ち上げることが肝要だ。真っ当なジャーナリストには、こんな恥ずかしいことは期待できない。こういうときのために暖めていた「アベ友」言論人グループの活躍のときだ。なにせ自民党と保守言論、持ちつ持たれつのズブズブの関係なんだから。
こうなれば、外国メディアも、外交筋も無視はできなくなる。どうせみんな、お世辞の付き合いなのだ。その上での、国葬だ。安倍の死を最大限利用しての国葬の実現だが、国葬が実現すればその効果は大きい。あらためて国民各層に「アベの偉大さ」を再認識させることができる。こうして、ますますアベ批判はしにくくなる。自民党政治は安泰化する。万々歳だ。
うまくいけばの話だが、安倍の死の政治利用を改憲の実現につなげることだってできない話しではない。安倍の悲願は改憲にあった。国民の同情を、「改憲の志半ばで非業の最期を遂げた政治家」に感情移入させればよいのだ。あるいは、「改憲実現の願いを凶弾に砕かれた悲劇の政治家」などというイメージの刷り込み。このことによって、「偉大な政治家安倍晋三の遺志を継いで改憲の実現を」という世論誘導もできよう。そのためのイベントとして、国葬は決定的な役割を果たすことになる。
国葬の日は「国民の休日」にしたいものだ。学校は休みにせずに、子どもたちを集めて「偉大な政治家安倍晋三」追悼の行事に参加させよう。「安倍恩赦」もしなきゃならん。もちろんこの日は歌舞音曲の類いは禁止だ。テレビのお笑い番組なんてとんでもない。どの局も、「偉大な政治家安倍晋三追悼」の特番を流さなくてはいけない。葬儀はこの上なく盛大にやろう。その様子はリアルタイムで放映し、関係者の追悼インタビューを延々とやらせよう。それから、芸能人の起用だ。関連イベントを到るところで盛大に盛り上げなければならない。外国要人に、アベシンゾーの偉大さを語らせよう。安倍追悼のパンフレットもうんとばらまこう。安倍追悼広告でまたまた電通を儲けさせることもできる。これくらいやれば、国民に自民党政治路線の正しさを刷り込むことができるだろう。そうすりゃ、岸田長期政権の実現も夢ではない。
もともと「国葬」は、天皇制政府による「死の政治利用」であったそうだ(宮間純一中央大学教授)。1878年に不平士族たちによって暗殺された大久保利通の葬儀に始まるという。国家を挙げて大久保という人物に哀悼の意を示すことで、反対派の動きを封じ込めるという明確な政治的目的をもって執り行われたとのことだ。
今回もよく似ているじゃないか。安倍国葬は明らかに「死の政治利用」だよ。政治家が、政治家の死を政治利用する、やましいところはない。とはいえ、相当無理して国葬やろうと踏み切ったのだから、このチャンスの最大限の利用価値を引き出さなくてはならない。さて、どうやろうか。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.7.18より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=19535
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