しない方がいい苦労

著者: 藤澤 豊 ふじさわ ゆたか : ビジネス傭兵
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若い頃の苦労は「買ってでもしろ」と言うが、そう単純じゃないんじゃないかと思っている。苦労にも色々あって、少なくともした方がいい苦労と、できればしない方がいい苦労の二つはあると思う。将来一角の社会人に成長してゆくにはどうしてもしておくべき類の苦労もあるだろう。逆に、社会に出る前に、あまりに若くしてすべきじゃない類の苦労も結構あるんじゃないかと考えている。

すべき苦労をきちんとする機会、プロセスに恵まれれば、そこそこの素材の人でも一応のかたちに成長してゆけるのではなかと思う一方で、素材としては恵まれている人でも、しちゃいけない苦労、できればしない方がいい苦労をしすぎると、その苦労が人間を大きく成長させるより卑屈にしてしまうケースの方が多いだろう。

しておくべき苦労の一例に、昔、武家の跡取りの子供のうちからの文武両面に渡る鍛錬がある。後者の例は、特に極端な例は事欠かない。世界の多くの紛争地域に残された子供がどうやって生き延びるかを想像すればいい。その日、その日を生命として生き延びるためには殺人でも盗みでも何でもありだろう。不幸にして何でもありのなかの苦労で得る能力は何でもありの社会ででしか価値がない。

ここまで極端なしちゃいけない、しない方がいい苦労ではないにしても、多くの企業での普通の日常業務において、若い人達に将来組織を率いて行く人材に成長してもらうために、できればした方がいい苦労より、できればしない方がいい苦労を多くさせているケースをしばしば目にする。しない方がいい苦労を多くさせられることによって、人間我慢することを覚えるだろうが、その苦労をさせられることによって、個人としても企業としても、貴重な取り返しのつかない時間を失っている。

先輩諸氏が二十年、三十年かけて体得した経験、知識を後輩に知識として分け与えることなく、後輩に自分たちと同じように苦労して能力を身につけることを要求する管理職、先輩諸氏がいる。
社会インフラも環境も違うので幸いにしてそうはならないだろうが、そのような管理職、先輩諸氏が望むように、もし若い人達が先輩諸氏と同じスタートラインから二十年、三十年かけて今日の先輩諸氏と同じレベルの能力に達することをすると、二十年、三十年後の企業は今日と同じレベル、能力の人達によって構成されていることになる。二十年、三十年かけて企業はその基礎である人材の能力の面でどのような成長を成し遂げたと言えるのか?これを時間の損失を言わずになんと言えばいいのか?

経験、知識を同僚あるいは後輩との差別化の道具として使う以外に存在価値を示しえない了見の狭い管理職、先輩諸氏が後輩の成長を押し留め、企業の存続すら危ういものにしかねない。若い人達には、先人がしてきた苦労をすっ飛ばしてでも一日でも早く先人が苦労の末に到達した地点まで来て頂き、先人がなしえなかった地点を目指して今まで誰も経験してこなかったチャレンジで苦労をして頂き、企業も社会も次のレベルに引き上げる作業をして頂かなければならない。

苦労しなければ価値あるものは得られないというのは必ずしも真ではないし、ましてや苦労そのものに価値を見出そうとするのは本末転倒だ。目的は苦労することじゃないはずだ。それを他人に要求するのはあってはならないことだ。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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